仲哀天皇と応神天皇(私論)

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国譲り前後の大和倭国

仲哀天皇(私論)・概要: 現在、14代仲哀天皇と言えば実在しない天皇の代名詞ですが、当サイトでは別の視点から実在するという立場から検討したいと思います。とは言っても、仲哀天皇そのものというよりは雛型になった存在が居るのではないのかという印象を受けたからです。簡単に言うと、15代応神天皇の存在が略確実視され、前政権とは異なる政策を採っている事から、その倒された方が仲哀天皇の雛型になったと推察されるからです。系図的にも初代神武天皇から13代成務天皇までは直系ですが、成務天皇に嗣子が無かった為に、甥でありながら後継者となり14代天皇に即位し、父親は実在が疑問視される日本武尊で、その上、日本武尊が薨後36年目に生まれるという生物学上あり得ない生い立ちを持っています。しかし、日本武尊は複数の英雄の事跡を一人にまとめた人物とも云われている事から、その内の一人とは親子関係だったという可能性もあります。母親の方は11代垂仁天皇の皇女である両道入姫命で、こちらも曾祖父の娘が母親という世代的にはかなり無理があるように感じます。皇后の神功皇后も曰く付きの女性で、実在が疑問視され、仲哀天皇から見ると実在説は四面楚歌の状況です。

仲哀天皇は血脈の断絶や、遠征先の九州で不可解の死を遂げるなど、多くの謎を含んでいる正に大きな鍵となる天皇と言えると思います。天孫降臨以降に皇后(妻)で巫女的な役割を持ったのは、火遠理命のトヨタマビメ(豊玉毘売)、ウガヤフキアエズのタマヨリビメ(玉依姫)、そして仲哀天皇の神功皇后の3人しかおらず、その他の天皇の皇后は有力豪族や一族の子女で、子供は同じく有力豪族の祖になるように設計されていると思われます。逆に、火遠理命のトヨタマビメの子供はウガヤフキアエズが唯一、ウガヤフキアエズのタマヨリビメの子供は4人いたものの、最終的には神武天皇1人、仲哀天皇の神功皇后の子供も応神天皇が唯一(仲哀天皇と大中姫命の間に生まれた香坂王と忍熊皇子は非業の死を遂げています)と結果的に跡継ぎ以外は排除されるという特異な存在となっています。この事から大和倭国の当初は男王が吉備国王一族、妃が伊都国系の巫女、跡継ぎは一人のみで、他が排斥されるという体制だったのではないかと思われます。

179万2470年−ニギノミコトの跡を継いだ火遠理命(山幸彦)、舅である海神(大綿津見神)の言われたままに、さほど罪の無い敵(兄:火明命・海幸彦)に言いがかりを付け、従属させています。これは火遠理命が伊都国系の巫女である豊玉毘売の協力を得て大和国に侵攻(東征)した事に重なります。そして、存在感の無いウガヤフキアエズは、「記紀」の上で神武天皇に繋げる鍵的な存在となっています。簡単に言うと、神武天皇は天孫降臨が行われた179万2470年後に大和に東征を行いましたが、この年号の1字を単なる数字と捉え全て加えると1+7+9+2+4+7+0=30となり、2倍年となる為に2で割ると15年という数字が導き出されます。という事はニニギノミコト(壱与)が天孫降臨を行ってから15年後に神武東征(大和国侵攻)が行われた事になります。さらに、火遠理命の別名が彦火火出見尊、神武天皇の別名が彦火火出見、と同名。という事は火遠理命と神武天皇は同一人物という事になります。説明するのは難しいのですが、実際の系図はウガヤフキアエズの後に仲哀天皇だったものが、その間に架空の神武天皇から13代成務天皇を挿入し、天皇家を高める為や吉備国の偉業を消す為に、神武天皇が東征を行い、孝霊天皇や崇神天皇により吉備国が討伐したように記載され、一方で、事実としても残そうとした為と推察されます(架空の天皇とはいっても、系図的に繋がっている例もあり有力豪族の祖とされる実在の人物が意図的に歴代天皇として組み込まれている可能性があります)。

饒速日−さらに、海幸彦の別名は古事記では「火照命」、日本書紀では「火明命」、そして、饒速日の別名が「彦火明命」、「天火明命」、「天照国照彦火明命」とすれば、海幸彦と饒速日は同神となり、火遠理命(山幸彦=彦火火出見)と火明命(海幸彦)との対立と、神武天皇(彦火火出見)と饒速日(火明命)との対立は、同じとも捉える事が出来ます。そうなると、吉備軍を率いた海幸彦(饒速日)が壱与を擁して逸早く大和国を制圧し、その後、弟である山幸彦(神武天皇)と内乱となり、山幸彦(神武天皇)が勝利したと考えられます。元伊勢神社(籠神社:京都府宮津市大垣)では主祭神として彦火明命(饒速日=海幸彦)、相殿として豊受大神が祭られている事から、海幸彦(饒速日)は山幸彦に敗れた後、丹波国(京都府沿岸部)に移封されたのかも知れません。伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)に天照大神(卑弥呼)が祭られた後、伊勢神宮外宮に豊受大神(壱与)が祭られるようになり、卑弥呼の墳墓と思われる平原遺跡1号墳と元伊勢神社(籠神社)、伊勢神宮には内向花文鏡(八咫鏡?)が伝わっています。奈良県の大神神社の祭神である大物主は正体不明の神で、概ね本命が大国主命、次点が饒速日のようです。

仲哀天皇は架空だった初代から13代までの天皇との差別化を図る為、あえて英雄である日本武尊の子供として独特の系図を用意し、血筋的には分断したように感じます。日本武尊の母親は吉備臣らの祖とされる若建吉備津日子の娘、播磨稲日大郎姫で、妃の一人吉備穴戸武媛も、名称から吉備一族出身だった事が窺えます。仲哀天皇の時代(4世紀中頃)に九州侵攻(西征)が行われ、九州倭国の敗北により「国譲り」が成立すると、政権内部に勢力争いが発生し仲哀天皇はその犠牲になったと思われます。仲哀天皇を排斥したと思われる一番手が神功皇后で、吉備国系の男王を退け、伊都国系の男性と密事を重ねる事で、純正の天皇(応神天皇)を宿し擁立したのではないかと思われます。それに反対した、仲哀天皇と大中姫命の間に生まれた香坂王と忍熊皇子は反対しましたが、あえなく鎮圧されています(布陣したのが、吉備氏の勢力内にある播磨国だったのも、仲哀天皇が吉備と深く関わっていたと思われます)。

その後、同じ吉備国派でしたが、火遠理命(山幸彦)に排斥された火明命(海幸彦=饒速日)派が復権し、その後裔である物部氏が大きな影響力を持つようになっています。もしかしたら、仲哀天皇の排斥に物部氏が関与したのかも知れません。

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