邪馬台国を誤誘導させる倭国

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倭国

倭国・概要: 魏志倭人伝には「女王国」という単語が5カ所、対して「邪馬台国」という単語は1回しか出てきません。その他にも、女王国を彷彿させる単語は「女王」、「倭」、「倭国」、「倭地」、「卑弥呼」があり、使い分けているようにも、気まぐれとも、いい加減にも感じられる表現をし、魏志倭人伝が読む説く混乱の1つにもなっています。一つづつ確認してみます。

倭国

(1)−「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王」

上記は魏志倭人伝の一文で、その国は元々男性が王位を継承していましたが、在位70〜80年も経つと倭国は混乱し、長い間お互いが攻め合った為、共立して1人の女子を王とした。と訳されます。

(2)−「正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩」

上記は魏志倭人伝の一文で、正始元年(240)、太守(帯方郡の最高責任者)弓遵は建中校尉(中級武官)梯儁等に、詔書(身分の高い人物が発する公文書)・印綬を預け倭国に派遣しました。倭国では、倭王に謁見し斉(皇帝)の詔書、黄金、絹類、刀、鏡、采物を授けました。倭王は使者に上表文を託して詔恩(情け深いみことのり。慈しみの仰せ言。)の言葉を発しました。と訳されます。ここで重要なのが、倭国に倭王(卑弥呼)が居て帯方郡の役人と謁見した、つまり、倭国には倭王(卑弥呼)の宮殿があった事が窺えるという例として大変貴重な一文です。

邪馬台国との比較

(1)から卑弥呼は其國の女王として擁立されたとありますが、「其國」とは文脈からは伊都国の説明の後の為、伊都国と考える事が出来ます。よって、伊都国の国王が長期間(70〜80年)に倭国を束ねる立場にあった為に増長し、倭国の国々から反発を招き、改めて卑弥呼が伊都国王兼倭国王に選出された事が推察されます。この一文からは邪馬台国と卑弥呼とは全く関係が感じられません。

(2)から帯方郡の使者が邪馬台国では無く倭国に訪れ倭国で倭王(卑弥呼)に謁見した事から倭国と邪馬台国は同義では無い事が判ります。そして、帯方郡の使者が常駐するのは伊都国である事から、使者と倭王(卑弥呼)に謁見した場所は伊都国である事が推察されます。そして、書や賜物を改め、女王への問題が無いようにする事は伊都国である事から、必然的に卑弥呼の都は伊都国という事になります。

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