倭の五王・概要: 邪馬台国は、魏志倭人伝を素直に読み解くと九州から遠く離れた太平洋の海上に当たり、それを受け入れるか、自分で新たな答えを見つける為に迷走するか、大きく分かれます。受け入れた場合は私のように邪馬台国は存在しないという答えに達しますが、受け入れない場合は自分の答えに導かれるような、魏志倭人伝を独自の解釈に歪曲しなければなりません。そして、古代の日本には邪馬台国と同様に、「倭の五王」と呼ばれる謎の存在があり、こちらも数百年に経っても明瞭な答えを出す事が出来ません。邪馬台国と大きく異なるのは、邪馬台国が魏志倭人伝の中で、僅か1回しかその単語が出現せず、極めて曖昧な存在でしたが、「倭の五王」と呼ばれる、所謂、「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」に関しては中国の歴史書に複数回、具体的に記載され実在が確実視されている事です(正確には邪馬台国や卑弥呼の固有名詞は記していません。日本書紀の製作者はあくまで魏志倭人伝での話で邪馬台国が出現するものの、実際には存在しない事が判っていたのか、又は邪馬台国が存在した記録や伝承が日本には残されていなかったと思われます)。しかし、邪馬台国の存在が「記紀」の中の注釈で述べられているのにも関わらず、「倭の五王」には全く触れられておらず、完全に沈黙しています。その為、「日本書紀」、「古事記」で示されている天皇の没年や血縁関係と、「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」が中国に対して朝貢した年を比較して、それに当てはまめる事が方法論とされました。
西暦 | 倭王 | 古事記 | 日本書紀 | 備考 |
413年 | 讃 | | | 「晋書」安帝紀 |
410年 | | | 没:18代反正天皇 | |
421年 | 讃 | | | 「宋書」夷蛮伝 |
425年 | 讃 | | | 「宋書」夷蛮伝 |
427年 | | 没:16代仁徳天皇 | | |
430年 | ? | | | 「宋書」文帝紀 |
432年 | | 没:17代履中天皇 | | |
437年 | | 没:18代反正天皇 | | |
438年 | 珍 | | | 「宋書」夷蛮伝・「宋書」文帝紀 |
443年 | 済 | | | 「宋書」夷蛮伝 |
451年 | 済 | | | 「宋書」倭国伝・「宋書」夷蛮伝・「宋書」文帝紀 |
453年 | | | 没:19代允恭天皇 | |
454年 | | 没:19代允恭天皇 | | |
456年 | | | 没:20代安康天皇 | |
460年 | ? | | | |
462年 | 興 | | | 「宋書」孝武帝紀、倭国伝 |
477年 | 興 | | | 「宋書」順帝紀・「宋書」夷蛮伝 |
478年 | 武 | | | 「宋書」順帝紀 |
479年 | 武 | | | 「南斉書」倭国伝 |
479年 | | | 没:雄略天皇 | |
489年 | | 没:21代雄略天皇 | | |
502年 | 武 | | | 「梁書」武帝紀 |
古事記から推察すると倭王「讃」は16代仁徳天皇、「珍」は18代反正天皇、「済」は19代允恭天皇、、「興」は20代安康天皇、「武」は21代雄略天皇となりますが、「宋書」では「讃」の弟が「珍」としていますが、古事記では仁徳天皇の子供が反正天皇としており矛盾が生じます(反正天皇は17代履中天皇の弟)。又、雄略天皇が崩御した後も「武」の朝貢が続いている点も矛盾しています。
日本書紀から推察すると18代反正天皇は「讃」となりますが、崩御後も「讃」の朝貢が続く為に矛盾します。19代允恭天皇は「讃」、「珍」、「済」の3世代に被り矛盾します。21代雄略天皇は「興」と「武」と2世代に被り、崩御後に朝貢が続いている点も矛盾しています。
上記のように「記紀」からは基本的に明確な「倭の五王」を導く事が出来ず、それ以上に記されている「年」自体も改変されてる可能性が大きい為に鵜呑みにも出来ず多くの説が生れる結果となっています。さらに、中国の歴史書では何故天皇の名前を一字で記載しているのか?、「記紀」の編纂者が魏志倭人伝の倭国(邪馬台国)や女王(卑弥呼)については注釈しているのに対し、何故、「倭の五王」については全く無視しているのかが大きな謎となっています。
代 | 名 称 | 別 名 |
15代 | 応神天皇 | 誉田別尊・誉田別天皇・胎中天皇・品陀和気命・大鞆和気命・品太天皇・凡牟都和希王 |
16代 | 仁徳天皇 | 大鷦鷯天皇 |
17代 | 履中天皇 | 大兄去来穂別尊・大江之伊邪本和気命・大兄伊射報本和気命・去来穂別 |
18代 | 反正天皇 | 多遅比瑞歯別尊・水歯別命 |
19代 | 允恭天皇 | 雄朝津間稚子宿禰尊・男浅津間若子宿禰王 |
20代 | 安康天皇 | 穴穂天皇・穴穂皇子 |
21代 | 雄略天皇 | 大泊瀬幼武尊・大長谷若建命・大長谷王・大悪天皇・有徳天皇 |
名前からは21代雄略天皇の別称である大泊瀬幼武尊の「武」の字のみが合致しますが、何故中途半端に位置する「武」の字が中国側に採用されたのかは不詳で、確立からすると、たまたまの可能性の方が高いと思われます。
以上の事から考えると「記紀」の編纂者は「魏志倭人伝」などは例外だったものの、基本的には中国の歴史書を見る事が許されず、日本国内に残された僅かな資料や伝承を元にした為、中国への朝貢や朝鮮半島侵攻などは殆ど知らずに編纂した可能性が高いと考えられます。一般的に、応神天皇以降は比較的に実在説が有力でしたが、「倭の五王」や国際情勢などが記載されていない以上、少なくとも継体天皇(又は欽明天皇)以前は、年号や天皇の名、家族関係、実在人数などは創作された部分が多くなり合致しないのではないでしょうか(当然、判っている範囲では反映させているとは思いますが、現状ではどの天皇が実在していたのかを特定するのは難しいのでは無いでしょうか)。一転して継体記は、「百済本記」や「加羅文書」と思われる歴史書からの引用が多様され、当時の日本と朝鮮半島の関係が良く判る内容となっています。
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