邪馬台国は存在しないのかも知れない!!

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邪馬台国

邪馬台国・概要: 私は考古学者や歴史学者ではありませんので、これから記する事は科学的な根拠は全く無い、所謂「トンデモ説」、「トンデモ歴史観」にもならない推測、推論で構成されています。又、古田武彦氏が論じている「邪馬台国」では無く「邪馬壱国」だから「邪馬台国」は無いという理論では無く、存在そのものが無い、架空(捏造)である可能性もあるという説を記していこうと思います。2016年9月。

邪馬台国の位置については江戸時代中期の幕府の政治家である新井白石(明暦3年:1657年〜享保10年:1725年)が「古史通或問」で大和国説を説いてから数百年の間、数多くの識者が延々調査、議論しても未だに特定に至っていません。これは○○説が正しいとか間違っているという問題では無く、元々邪馬台国が存在しなかったからではないのかと思いました。さらに言うと、卑弥呼自身が主祭神として祭られている神社は全国どこにも存在せず、邪馬台国の伝説や伝承すら残されていません。多くの学者や研究家、マスコミが大きく取り上げられ書籍や論文がある一方で、全く邪馬台国の存在感が無いという現実を直視する時が来たのかも知れません。

まず、通称「魏志倭人伝」は日本側から見ると第三者(中国)が、同時代に編纂したもので、中国では正史と同等として扱われていた事から、多少の間違いや勘違いがあるものの基本的には正しいものと捉え、貴重な資料として考えられています。しかし、当時の「魏」、「西晋」は対立する「呉」に対し、より大きな国が自国の冊封国になっている事を誇示し、さらに、軍事的な脅威を与える為に政治的な意向が強く繁栄されているとも考えられます。又、司馬氏が魏での立場を有利とする為、魏の西方に位置し大国であるクシャナ朝(大月氏)と結んだ曹氏以上に成果を誇示する必要性から「倭」を巨大な国として報告したとも考えられます。

何れにしても、「呉」にとって最もと効果的に脅威を与え、尚且つ安易に上陸出来ない絶妙な位置に冊封国がある事が求められ「邪馬台国」という架空な国が想定(捏造)されたのではないでしょうか。

その場所は、魏志倭人伝の中で「南至投馬國水行二十日」、「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の2行で表しています。これは、魏志倭人伝でいう放射式ならば伊都国、直線式ならば不彌国から南方向に船を利用して20日後に投馬国、船を利用すると10日、歩くと1カ月で邪馬台国に到着するという意味です。当時の水行1日は約84キロと推定されている為、投馬国は伊都国から1680キロ離れている事になります。一方、陸行は1日に約28キロ(4キロ/1時間×7時間)為、邪馬台国は840キロ(28キロ×30日)離れている事になります(水行でも84キロ×10日で840キロ)。当然、これだと投馬国と邪馬台国は太平洋の海上にあり、現在該当する島等はありません。しかし、この位置こそ呉の東の海上に当たり、魏には呉の海上を封鎖出来る程の広大な国が冊封国として控えている事を暗示させる効果があると推察されます。この事からも、魏志倭人伝では方向や距離が間違っているのでは無く、意図的に投馬国と邪馬台国という架空の国があるかののように見せかけたという事になります。

「計其道里當在會稽東治之東」

上記は魏志倭人伝の一文で、道順や距離を合わせてみると、会稽の東冶の東にあたると訳す事が出来、「会稽の東冶」は呉の地名である事からあえて意識させている事が窺えます。又、前後の文が倭人の風俗について記載されているのに突然、「計其道里當在會稽東治之東」の一文が差し込まれ、より印象的になるような意図も感じられます。

又、魏志倭人伝の中で、「邪馬台国」という単語は1回しか出てこなく、「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳?可七萬餘戸」の1文だけです。一般的な訳は「南方向に進むと女王の都である(都がある)邪馬台国に至ります。船を利用すると10日間、歩いて行くと1月間掛かります。官僚として上から「伊支馬」、「弥馬升」、「弥馬獲支」、「奴佳?」がいます。7万戸余の家があります。」とされます。

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