邪馬台国を論じる

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邪馬台国

邪馬台国・概要: 邪馬台国は江戸時代から延々と数多くの政治家や考古学者、歴史学者、教授、著名人など議論、研究されてきましたが今尚場所の特定が成されていません。これは、歴史が長く、権威ある人達が論じる為に、ある固定的な考えが多くの日本人が共有される事になり基本的なところから間違った方向性を向いているからと思います。まず最初の基本が、魏志倭人伝は「倭人伝」であり「倭国伝」でも「邪馬台国伝」でもないという事です。ここが最初の肝であり、ここを間違って解釈する為に機内説にしても、九州説にしても大きく異なった方向に導かれてしまうのです。次に、基本的に魏志倭人伝で書かれている事を尊重する事です。その上で当時の中国の役人になったつもりで、この程度は間違うであろう可能性を探った方が概要が掴めると思います。

当時の中国(魏・晋)から見ると、政治的な利用価値が高いものの、実益がある土地柄では無く、実際に測量士が入り距離や方角を正確に測ったものでは無いという事です。多くの人達が独特の計算方法を導き出し邪馬台国の位置を確かめようとしましたが未だに発見に至らないのは、計算式が間違っているのでは無く、そもそも魏志倭人伝での距離は方向は役人の感覚や倭人の不確かな情報を元に作成されたと推測出来るからです。次に、「倭」、「倭国」、「倭人」、「倭地」、「女王国」、「女王」、「邪馬台国」がどの様に使い分けているかを明確にする事です。

中には全く同義として考えているような人も数多く見られが、これらを混同して理解すると本当に迷路に陥ります。次に、これは一部の人達も提唱している事ですが、中国の役人は伊都国までしか来ていない可能性が大きいという事です。その為、魏志倭人伝では伊都国周辺とその北側に位置する国々の概略のみ、その他は記載されていないという事になります。最後に、当サイトでは数百年間研究されたのに発見されていない為、邪馬台国は存在しない架空の国なのでは?という疑問を元に制作しています。これは、最初から邪馬台国があると前提として、機内説にせよ、九州説にせよ、考えをまとめると、多くの人達が陥ったように魏志倭人伝を曲解して上記の「基本的に魏志倭人伝で書かれている事を尊重する事」に反してしまうからです。これまでのページと略同じ内容ですが、これを踏まえてなるべく簡潔にまとめてみたいと思います。

最初の最初、「倭人」と「倭国」の混同

まず、魏志倭人伝の前段の基本、多くの人達は「倭国は30カ国で形成されている。又は邪馬台国は30カ国の連合国(連合政権)だ。」と思っています。これはたぶん著名な研究者がそのように訳した為、半ば常識として固定化され、教科書にも同じような表現で記載され続けています。実はこの最初の1歩が掛け違えている為に、機内説にしても九州説にしても倭国に対して大きな誤解を生む結果となっています。実は魏志倭人伝の原文を見ても「倭国は30カ国で形成されている。又は邪馬台国は30カ国の連合国(連合政権)だ。」とは書いていなく、最初に間違った人の訳がそのまま固定化されている為に誰も疑問を持たなくなった為と思われます。これは「倭人」と「倭国」と混同した事での誤解で、「倭人が住んでいる地域には魏と交流がある国が30カ国あります。」と訳するべきと考えます。

「国」の明確化

魏志倭人伝には○○国という「国」が数多く見られますが、明確にする必要があり、漠然に読み進めると大きな誤解が生れます。既に記載済みの為、繰り返しませんが「倭人が住んでいる地域」には国王(女王)がいる国は倭国と狗奴国の2カ国しか存在しない(邪馬台国は「女王の都する所」という不明瞭な意味なので保留)、という事と、女王国は所謂「国」では無く「女王の主権が適用される範囲(地域)」を中国側が揶揄したものである、の2点は絶対に抑えなければいけません。間違っても「女王国」は「邪馬台国」と同義であると勘違いすると何が何だか判らなくなります(例えば、女王国の東に倭種の住む国々がある事から、邪馬台国は九州の東沿岸に比定されるものの、伊都国から南方に水行10日・陸行1月の位置とはかけ離れ矛盾します)。

「女王」と「女王国」の混同

魏志倭人伝には「世有王皆統屬女王國」と「此女王境界所盡」の一文があり、一般的には前者を「代々伊都国には国王が居て皆、女王国に統屬(統制のもとに属すること)している。」、後者を「ここ(奴国)が女王国の境界が尽きる所。」と訳されています。前者は「女王国」、後者を「女王」と分けているはずなのに、何故か両方共に「女王国」と訳されています。これも、最初に訳した人がたぶん著名な人だった事から数百年たってもその影響下にあり固定化され誰も疑問に感じていません(女王国と邪馬台国を同義と考えている為、邪馬台国の7万戸と伊都国の1千戸が脳裏に浮かび、女王国が伊都国を統屬していると結論ありきの訳と思われます)。前述したように女王国は「女王の主権が適用される範囲(地域)」と定義する事が出来、「女王」はそのものずばり「女王」でしかありません。

これを当てはめてみると、前者は範囲(地域)に伊都国の国王が統屬されている為、意味が良く判らなくなってしまいます。当然、伊都国の国王が範囲(地域)を統屬していると訳すのが自然で、そうなると、伊都国の国王が女王国よりも上位に位置する事が明確になります。同様な表現で、「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」があり、こちらは狗奴国が女王に属していないという訳になります。先程の一文が一般的な訳と同様な意味になる為には、「女王国」では無く、「女王」や「邪馬台国」と書かなければならないと思います。魏志倭人伝の基になったとされる魏略の同じ部分には「其国王皆属女王也」と記され、統屬では無く「属」の字が使われ意味が異なっています。

魏志倭人伝を良く読んでいる人達は、何故、邪馬台国という国(都)がありながら、伊都国に、魏の使者が常駐するのか、女王国の国々の検察する「一大卒」が置かれているか疑問に感じた人も多いと思いますが、上記のように訳すと、伊都国が女王国を統屬している訳ですから、当然という事になります。後者も「ここが女王の境界が尽きる所。」と訳せば、意味が通じなくなり、「ここ(21カ国)が女王の主権の適用される範囲である。」と訳せば明確になります。これにより、女王国とは先程の一文の前に記載されている21カ国を指す事が比定出来ます。

倭国の範囲の明確化

「最初の最初」で述べたように、畿内説や九州説で大小あるものの殆どの人達は100余カ国や30カ国に引きずられ倭国、又は邪馬台国を非常に大きな版図を築いていると思っています。しかし、そのような事は魏志倭人伝には一文も書いておらず、固定概念さえ取り外せば、以外な程に簡単にその範囲を求める事が出来ます。まず、北方、これは魏志倭人伝で明瞭に記載されています。それは「其北岸狗邪韓國」の一文です。「其」の字はその前に書かれている「倭」に掛かっている事から、「狗邪韓國」が倭国の北岸に当たります。次に南方、これは魏志倭人伝ではなく、後漢書の東夷伝の「倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也」の一文です。

簡単に訳すと倭奴国(伊都国)から貢物を持ってきた外交官が、倭国の極南界(海)から来た旨を記した内容です。これにより伊都国が倭国の最も南方に位置する事が判り、その範囲は朝鮮半島の北岸と、九州の南岸、対馬海峡に浮かぶ島々と比定する事が出来ます。この事例は中国の帝から賜った金印「漢委奴国王」を「漢の倭の奴の国王」と著名な人が訳した為、倭国にある奴国の国王が賜った金印という固定概念が定着しました。さらに、倭国は30カ国を擁する大国と思い込んでいる為、奴国の比定地が「極南界」に当たらないのにも関わらず、それに無理やり当てはめる為に、著名な人達でさえ地図を逆さに見たなどという説を本気で論じていました。

しかし、普通に訳せば「漢の委奴(イド)国王」となる為、伊都国の国王が賜った金印という事が判ります。さらに、魏志倭人伝では「問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」の一文があり「倭地を実際に尋ねると、海上に多くの島々が点在し、離れたり、連なったりし、周旋すると5千里余りとなります。」と訳くせ、まさに対馬海峡に浮かぶ島々の事を表現しています。又、5千里については、狗邪韓国⇔対馬国:千里+対馬国:800里+対馬国⇔壱岐国:千里+壱岐国:600里+壱岐国⇔末盧国:千里+末盧国⇔伊都国:5百里+伊都国⇔不弥国又は奴国:百里=5千里。となります。因みに「狗邪韓国」以外の5カ国には道理と官命、戸数の概略が示され、「狗邪韓国」は倭国に着いた事で「到」、伊都国には倭国の首都(国王の存在、一大卒が設置、魏の役人が常駐)に着いた事で「到」の字が採用されています。又、倭人伝と言いつつ、実際には倭国にしか中国の役人が来なかった事から風俗を紹介する文言も、漁撈生活など海に関連した記述を見る事が出来ます。唯一の矛盾は卑弥呼の墳墓と推定した平原弥生古墳1号墳の大きさが魏志倭人伝に記された「徑百餘歩」より極端に小規模な事で、小さい理由は前述しましたが、数字的には全く合っていません。

女王国の位置の明確化

魏志倭人伝の「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」の一文から女王国の北方には伊都国、そして、概略が判る国々がある事が判ります。概略が判る国々は「狗邪韓国」、「対馬国」、「壱岐国」、「末盧国」、「伊都国」、「不弥国」、「奴国」の7カ国で、その内の6カ国が倭国である事から、倭国の南方に女王国が位置している事が比定する事が出来ます。又、「自郡至女王國萬二千餘里」の一文から帯方郡と女王国との距離が1万2千里である事が判り、帯方郡と伊都国との距離が1万4千9百里である事から、伊都国の都から百里離れた日向峠の外側が女王国(≠邪馬台国)に比定する事が出来、九州北部が女王国の位置だという事が明確になります。

さらに、女王の主権の適用される範囲である「斯馬国」、「己百支国」、「伊邪国」、「都支国」、「弥奴国」、「好古都国」、「不呼国」、「姐奴国」、「対蘇国」、「蘇奴国」、「呼邑国」、「華奴蘇奴国」、「鬼国」、「為吾国」、「鬼奴国」、「邪馬国」、「躬臣国」、「巴利国」、「支惟国」、「,烏好国」、「奴国」以上21カ国が女王国内部(九州北部)に位置している事が比定する事が出来ます(倭国が各国に派遣したと思われる副官「卑奴母離(私論では:伊都守)」が地名の由来になったとされる宮崎県小林市細野夷守(ヒナモリ)がある為、その後、女王国の範囲が日向国にまで及んだとも考えられます)。

狗奴国の位置の明確化

魏志倭人伝の「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」の一文で「其」は女王国(女王の主権の適用される範囲)指す事から、狗奴国は女王国の南方に位置する事になります。女王国は九州北部に比定出来る事から、狗奴国は九州中央部から南部に掛けて位置している事が比定する事が出来ます。これ以上は、狗奴国の位置を魏志倭人伝から追う事は出来ません。

倭人が住んでいる地域の構成

倭 国
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末盧国・伊都国・不弥国6カ国
女王国
・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏好国・奴国
21カ国
中立
 多数
狗奴国
・狗奴国(複数の国で構成されているのかは不詳)1カ国
倭種
・邪馬台国・投馬国・その他複数あったと推定されます2カ国以上
外 国
・侏儒国・裸国・黒歯国3カ国

邪馬台国とは

この説は卑弥呼の塚の大きさ以外、魏志倭人伝に記されている内容と基本的に矛盾する事が無く、素直な解釈をする事で明確な部分と不明確な部分が浮き彫りとなり、より論点が判り易くなります。不明瞭な部分はやはり、邪馬台国と投馬国の2カ国で完全に中に浮く格好となる為、1つずつ、魏志倭人伝と邪馬台国を突き合わせ何が問題点なのか検証していきます。

@−まず、この文書は倭人伝である事から邪馬台国と投馬国の2カ国には倭人が住んでいると想定される為、女王国の東方に位置し倭種の国がある本州と四国には両国は存在しません。中には九州北部と、畿内の2カ所に邪馬台国があるという説を論じる人達がいますが、最も基本となる部分で異なっています。

A−次に、魏志倭人伝の中で、女王国の北側に位置する国々は戸数や道順、距離の大凡記載出来るが、その他の周辺国は遠い為に判らないと記されています。邪馬台国と投馬国の2カ国は戸数、方角、行程日数、官の名前が明記している事から、女王国の北方に位置している事が判ります(Bと矛盾)。

B−次に、邪馬台国は伊都国(放射式)から南方に水行10日・陸行1月の所にあります。投馬国は伊都国(放射式)から南方に水行20日の所にあります(Aと矛盾)。

C−邪馬台国の戸数は7万戸余りです。竪穴式住居に5人程度住する事が出来ると推定すると、邪馬台国には35万人住んでいた事になります。

D−投馬国の戸数は5万戸余りです。竪穴式住居に5人程度住する事が出来ると推定すると、投馬国には25万人住んでいた事になります。

E−邪馬台国は女王の都するところです。とありますが、前述のように、倭国の首都は伊都国で、倭国の女王である卑弥呼は当然伊都国に宮を構えていたと推察されます。その為、邪馬台国の女王は卑弥呼ではないという事になりますが、魏志倭人伝の文脈から邪馬台国の女王は卑弥呼を想定している為に矛盾となります。又、伊都国から南方に水行10日・陸行1月の所に邪馬台国がある為、倭国や伊都国と邪馬台国は同義ではありません。

F−邪馬台国と投馬国は魏国(中国)と交流があります。

G−狗邪韓国と伊都国には目的地に到着した意味の「到」が使われていますが、邪馬台国と投馬国には経由地という意味合が強い「至」の字が採用されています。この事から両国は魏の使者の目的地ではない事が判ります。

H−邪馬台国と投馬国には官僚がいて邪馬台国の副官は「弥馬升」、投馬国は「彌彌那利」、しかし、概要が明確な狗邪韓国・対馬国・壱岐国・不弥国の副官は伊都国が派遣したと思われる「卑奴毋離(伊都守?)」が記されています(伊都国は首都の為に派遣する必要がなく、末盧国にはそもそも官僚が居ません)。この事象からも、邪馬台国と投馬国はどこにも属していない事が窺えます(逆の邪馬台国が中心的な国であれば伊都国と投馬国にも「卑奴毋離」が派遣されてるはずです)。因みに邪馬台国の官の名前である「伊支馬」、「弥馬升」、「弥馬獲支」、「奴佳テイ」の漢字を1字づつバラバラにすると「伊」、「支」、「馬」、「弥」、「升」、「獲」、「支」、「奴」、「佳」、「テイ」となり、「都国」、「一国(一大国)」、「対国」、「不国」、「国」と魏志倭人伝で概要が記されている国々から1文字づつ、残りの「升」は、上がる、出世する、「獲」は、獲得する、「支」は、支える、「佳」は、質や品がよいこと、「テイ」は?、と比較的縁起の良い字が採用されています。投馬国の官でも「彌」、は広く端まで行きわたっている、すみずみまで行きわたっているさま、「那」は、たくさんある、 ゆったりとしている、「利」は、もうける、都合よい、とこちらも比較的縁起の良い字が採用されています。

I−帯方郡の役人が倭国に至り、倭王に詣でた、と訳す一文があり、これは、倭王である卑弥呼の宮が倭国にあった事を示すものです。もし、邪馬台国が女王(卑弥呼)の都する所であれば、「邪馬台国に至り、倭王(卑弥呼)に詣でた。」という一文でなければいけません。逆に、倭国の中に邪馬台国があると仮定すると、倭国の極南界(海)である伊都国の、東、西、北の3方いずれかに位置していなければなりませんが、魏志倭人伝では、邪馬台国は伊都国の南方に位置していると明記している為、矛盾している事になります。

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