邪馬台国の矛盾とは

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邪馬台国は存在するのか

「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳?可七萬餘戸」

上記は魏志倭人伝の一文で、実は邪馬台国という単語はこの一回だけで、その本質を読み取る事は大変難しいのですが、今まで検討してきた事を踏まえて、邪馬台国が如何に矛盾した存在であるかをまとめたいと思います。

1−邪馬台国は倭国では無い。

2−邪馬台国は女王国では無い。

「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」

3−上記の一文により邪馬台国は「略載」が記載されてる事から女王国より北方に位置しなければなりません。

「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」

上記の一文から女王国の北方に伊都国が位置している事が判ります。

「南至邪馬壹國」

4−伊都国からの放射式を採用すると、邪馬台国は伊都国より南方に位置する事が判ります(直線式を採用しても伊都国より南側に位置してる不弥国より南になります)。

3と4より、邪馬台国は女王国より北方にあるはずなのに、同じく女王国より北方に位置する伊都国より南方にある為、矛盾し邪馬台国は存在しない事になります。又、邪馬台国が伊都国と女王国の間に位置するのであれば、当然、「日数」では無く、「里」で記載されるはずです。

5−魏志倭人伝の性質上、国境までの距離を明確する必要がありますが、邪馬台国の「略載」には距離の情報が欠如しており、矛盾しています。

「可七萬餘戸」

6−上記の一文により邪馬台国は7万余戸の戸数がある事が判ります。1戸当たり5人とすると35万人、7人とすると49万人となります。しかし、西暦200年当時の人口は研究者(小山修三氏)の推定によると九州地方では約10万5千人、近畿地方では約10万8千、全国でも60万人程度の為、九州のどこに行っても邪馬台国が成立する場所はありません。例えば、吉野ヶ里遺跡の中心集落には1千〜1千5百人、衛星集落を合わせて3千〜5千人が平均的な国の人口とすると、30カ国ある訳だから、九州地方には9万〜15万人が妥当と思われます。逆に畿内説だと、版図は西日本全域となる為、1カ国の面積も広くなり人口も1万人程度、中心集落も吉野ヶ里の数倍の規模となりますが、現在、そのような遺跡は発見されていません。

「水行十日陸行一月」

7−「水行」や「陸行」など「移動手段」が記されている場合は実際に帯方郡の役人が訪れた国に使われる為、邪馬台国には役人が訪れた事になります。しかし、伊都国の南方に位置する女王国を構成する国々を行程上通過しているはずなのに、その情報が無いのは矛盾しています。

8−唐時代の「大唐六典」によると水行1日は84.15キロ、陸行1日は28.05キロ、よって水行10日は841.5キロ、陸行30日は841.5キロとなります。伊都国の放射式を採用し、水行10日又は陸行30日と解釈すると邪馬台国は沖縄県の近く、会稽の東冶の東に位置する事になります。水行10日及び陸行30日と解釈すると中国南海島の東に位置する事になります。これらの位置は魏志倭人伝の内容に合致しますが、同時に邪馬台国の存在を否定する事になります。又、例え南を東と間違えたとしても、放射式で日本海側だと秋田県、太平洋側だと岩手県に達し、直線式では日本を離れ、畿内説も成立しません。

9−当サイトでは「至」は国境に至、「到」は目的地の都などに到着すると定義付けています。そして邪馬台国には「至」の字が使われています。もし、邪馬台国が存在し重要視されているならば、当然「到」の字が使われているはずです。

以上の考察から邪馬台国は存在しないという結論に達しました。もし、邪馬台国の存在を肯定すると、方角や距離、魏志倭人伝の内容を恣意的に変える必要があります。

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