邪馬台国の「水行十日陸行一月」とは

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邪馬台国は存在するのか

今までの検討により、邪馬台国は存在しないという考えに達しましたが、最後の「水行十日陸行一月」を考えてみたいと思います。

邪馬台国は存在しない事から「水行十日陸行一月」は陳寿によって考えられた架空の日数で概念的な存在である事は明らかです。では、その概念的な日数はどの様な経緯で考案されたのか検討してみます。「魏」にとって倭の中で一番重要なのが、倭国の中心国である伊都国までの距離、日数である事は容易に想像する事が出来ます。そこで、魏の首都である洛陽から伊都国の都と思われる平原遺跡までの距離と日数を検討します。

定里=434m・採用一里値:[434m÷4=1085m]・[434m÷8=54.25m]・[434m÷16=27.125m]

以上の結果により洛陽から伊都国の都(平原遺跡)まで大凡、水行10日、陸行1月だという事が判りました(当然、この日数は机の上での話で、実際とは異なります。あくまで概念的な日数です)。しかし、伊都国は邪馬台国と同義ではありません(ただし、本来、邪馬台国が持っていなければならい機能が伊都国には備わっています)。簡単にいうと、陳寿は伊都国を軸にして反対側の水行10日、陸行1月の位置に邪馬台国という架空の国を捏造した訳です。魏志倭人伝では一貫として国境と国の長さを明確にしてきましたが、邪馬台国と投馬国は最初から存在しない為、それらを明確にする必要がなかったという事になります(基本的に魏志倭人伝では日数は不必要で、必要なのは距離)。邪馬台国を太平洋上に配置した理由は幾つかありますが、「魏」の敵国である「呉」への牽制と、「魏」の天子が東方の大国(実際は小国)の国王(倭王)から頭を下げられる存在という権威づけ、陳寿を登用した司馬氏の功績を誇張する為などが考えられます。大体、倭の風俗に関しても、畿内より九州北部に近いとは言っても、多くは東南アジアを指したと思われる記述が多く、朱崖、?耳(中国海南島)や会稽東治(中国福建省福州市)などの地名も出現している事から、裏を返せば元々そこに狙って水行10日、陸行1月を設定した可能性もあります。※洛陽〜帯方郡の距離5千里は後漢書より。

他ページ(女王国まで距離:参照)で検証しましたが、放射式を採用し伊都国(福岡県糸島市前原)から南に垂直し、会稽の東冶(中国福建省福州市)の東に交わる距離は地図上で815km。水行10日×84.15km(「大唐六典」の水行1日)=841.5kmで大凡合致します。陸行30日×28.05km(「大唐六典」の陸行1日)=841.5kmで大凡合致します。

放射式を採用し伊都国(福岡県糸島市前原)から南に垂直し、中国海南島の東に交わる距離は地図上で1640km。水行10日+陸行30日=1683kmで大凡合致します。水行20日×84.15km(「大唐六典」の水行1日)=1683kmで大凡合致します。

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