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 神社山門: 産泰神社

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産泰神社

産泰神社(群馬県前橋市下大屋町)
【 概 要 】−産泰神社の創建は不詳ですが、境内背後には赤城山の火山活動により噴出された溶岩と思われる巨石があり、赤城山への参道沿いに位置していた事から古くから赤城神社と関係が深い神社として信仰されてきました(日本武尊が創建したとの伝説も残っています)。歴代領主からも信仰が篤く、社領の寄進や社殿の造営が行われ、現在でも壮麗な社殿が残されおり多くが文化財指定されています。又、祭神である木花佐久夜毘売命は安産、子育てに御利益がある事から多くの参拝者が訪れています。

【 場 所 】群馬県前橋市下大屋町

【 構 造 】−入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚単層門

【 備 考 】−産泰神社の境内は赤城山から発生した「流れ山」の跡とされます。流れ山は火山の爆発や地震によって山体で大規模な山崩れが起こり、山麓に岩石や土砂が流れ込んで、止まった部分が大小様々な形態の山を形成した様の事を指します。古代人はこの様な景観を畏怖や畏敬に感じ次第に信仰の対象とした可能性があります。特に赤城山の山頂と、中腹に位置し古代の祭祀場と推定されている「櫃石」、赤城山信仰の本社とされる三夜沢赤城神社、産泰神社の境内は南北軸の直線上にあり、さらに境内の周辺には大規模古墳の遺構が多く、奉斎者だった上野国造の拠点に近い事からも当社は赤城神社の里宮だったとの説があります。一般的に現在の二宮赤城神社が里宮だったという説が有力ですが、当社がその旧地だったとの説もあります。その為、元々は南側が主要参道で、赤城山を仰ぎ見る空間構成になっていたものの、時代が下がるとその意味が失われ、さらに江戸時代に入り前橋藩主酒井忠世が奥方の難産だった為、安産祈願を行い見事救った事で、社殿が前橋城の方向である西向きに再建され参道も付け替えられています。

しかし、赤城神社であれば本来、豊城入彦命が祭れているはずですが、産泰神社の主祭神は安産に御利益があるされる木花佐久夜毘売命で、社号も出産を連想させる名称となっています。残念ながら、戦国時代の兵火により古文書が失われ中世以前の由緒を窺うことは出来ませんが、一説には赤城山の火口湖の小沼を神格化した小沼神の本地仏である虚空蔵菩薩像、大沼を神格化した大沼神の本地仏である千手観音像、赤城山を構成する頂部の一つ地蔵岳を体現する地蔵菩薩像の三体が安置されていた事から「さんたい」の社号の由来になったとも云われています。確かに、上記の説だと社号の「産泰」の由来にはなりますが、何故、木花佐久夜毘売命が祭られているのかは不明で、埼玉県内にも産泰神社が複数社鎮座し、多くが木花佐久夜毘売命を祭り安産や子授に御利益があるとして信仰されている事からも説得力に欠ける印象を受けます。

私論ですが、産泰神社は赤城山の山頂か「櫃石」の遥拝施設、又は里宮として創建され、その後に現在の群馬県前橋市二之宮町に遷座し二宮赤城神社になったと思います。残された当地は赤城山信仰では無く、境内の巨石の信仰する素朴な自然崇拝に移行し、さらに、修験道が盛んになると巨石が重なる事で出来た隧道を女性の「産道」と見立て「胎内くぐり」が行われるようになり、「産道」の「」と「胎内くぐり」の「」から「さんたい」の文字が生まれたと思われます。やがて、「産泰」の漢字があてがわれると、安産、子授に御利益があるとして信仰されるようになり、それに相応しい木花佐久夜毘売命が勧請され神社として成立したのではないでしょうか。この信仰は周辺にも伝播し、産泰神社を社号として掲げ、木花佐久夜毘売命を祭る神社が各地に創建されるようになったのかも知れません。

群馬県の神社山門
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榛名神社
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