万松寺: 楼門

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万松寺(山形城の移築城門・楼門)

万松寺(山形県・山県市)概要: 千歳山万松寺は度重なる火災などで由緒を失い、信頼性のある資料なども無い為多くは謎に包まれています。江戸時代中期に山形藩が神社や寺院の由緒をまとめた際、万松寺にも求められましたが、万松寺には由緒が無かった為、地元の地主に伝わる伝説が由緒として山形藩に提出されました。それによると信夫群司の中納言藤原豊充の娘である阿古耶姫は千歳山の古松の精と契を結び幸せでしたが、ある時その古松が伐採され名取川に架ける橋の材料となってしまいました。阿古耶姫は悲しみの末、千歳山の松の苗木を植えてから尼となり小さな庵を設けて古松を弔ったそうです。阿古耶姫が植えた松は何時しか「阿古耶の松」と呼ばれるようになり、鎌倉時代後期の私撰和歌集である「夫木和歌抄」で記載されている「陸奥のあこやの松に木がくれて、出ずべき月の出やらぬかな」の歌は万松寺の「あこやの松」の事を歌ったものとされます。同じく鎌倉時代に成立した「平家物語」には実方中将が奥州に流された際、「阿古耶の松」を見たいと国中探しに来たものの中々見つける事が出来ず難儀していると、老翁が出現し「阿古耶の松」は出羽国にあると教えてもらいようやく見る事が出来たと記載されています。

又、阿古耶姫が設けた小さな庵は、高僧として知られる行基菩薩が法相宗の寺院として整備を行い、その後に山寺立石寺(山形県山形市山寺)を開山した慈覚大師円仁が万松寺を訪れた際に天台宗の寺院とし、正法寺(岩手県奥州市黒石)3世である清厳良浄禅師が曹洞宗の寺院としたそうです。その後衰退しましたが室町時代中期に千歳山耕龍寺5世金貞恵眞が中興し、江戸時代には幕府から朱印状を受け、山形城の城主から仏殿(大雄宝殿:山形市指定文化財)を造営されています。万松寺の境内には阿古耶姫や実方中将の墓碑と共に野口雨情の「いよいよ よあけにや よあけの明星 親だ子だもの おやこひし あこや姫事跡」の詩碑が建立されています。

万松寺の山門は戦国時代に山形城の城主だった最上義光が、山形城を土塁の城から石垣の城に改めた際、南大手門を寄進されそれを移築したもので、数少ない山形城の遺構として貴重な存在です。山門は切妻、銅板葺、三間一戸、八脚楼門、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、上層部には米沢藩9代藩主上杉鷹山公の師、細井平洲の筆の「千歳山」の山号額が掲げられています。

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