日本百名城: 高遠城

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高遠城高遠城
【高遠城】−高遠城は信濃国一ノ宮諏訪大社大祝諏訪氏の一族で信濃国伊那郡高遠の国人領主高遠氏の居館として設けられたのが始まりとされます。戦国時代に入ると高遠氏は主家である諏訪家からの独立を画策を度々繰り返し、天文11年(1542)に当時の当主高遠頼継は武田信玄と共同で諏訪地方に侵攻し諏訪家当主諏訪頼重は捕縛、甲府の東光寺(山梨県甲府市)に幽閉された後に自刃し諏訪惣領家は事実上滅亡しました(名跡は後の武田勝頼が諏訪勝頼として継いでいます)。しかし、頼継も次第に武田家と対立するようになり結局天文21年(1552)に甲府へ召喚され、自害を命じられ、高遠家も滅亡しています。その後、高遠城は武田家により接収され、軍師である山本勘助によって改めて縄張りされ大規模な城郭へと変貌を遂げました。高遠城は当地域の中心的な役割を担う重要な城だった事から武田信玄(武田氏館の館主)と諏訪御料人との子供で諏訪家の名跡を継いだ諏訪勝頼が城主となり、その後も血族や親族が城主を勤め、武田家の拠点として重きを成しました。天正10年(1582)の織田家侵攻の際には仁科盛信が高遠城に立て籠もり、武田家にとっては最大の抵抗を試みましたが多勢に無勢(織田方5万、武田方3千)、程なく落城し大きな犠牲となっています。江戸時代に入ると保科正光が入封高遠藩を立藩、藩主が内藤家の時代に近代的な城郭に大改修されますが(縄張り自体は中世時代を踏襲し、本丸内部の建物などが刷新された)、年明治4年(1871)の廃藩置県により高遠藩が廃藩となり、それに伴い高遠城も廃城し多くの建物は破却されました。城内に設けられた藩校、進徳館の建物が健在で、木造平屋建て、寄棟、茅葺屋根が異彩を放っています。高遠城は日本100名城に選定されています。
高遠城高遠城
【甲州征伐】−天正10年(1582)、武田家の外戚に当たる木曾義昌が織田家に転じた事から武田家家臣団の崩壊が始まり、この機を逃さず織田軍が甲斐、信濃への本格的な侵攻が行われました。織田軍が信濃に侵入すると、現在の伊那郡阿智村周辺の領主だった下条氏に下克上が起こり、家老下条九兵衛が当家を掌握してから織田家に転じ、その数日後には小笠原信嶺も転じました。これにより飯田城(長野県飯田市)の城主保科正直が逃亡、大島城(長野県松川町)の城主武田信廉も逃亡し、織田軍は武田方の大きな抵抗も無いまま、信濃深く進攻する事に成功しています。当時の高遠城の城主仁科盛信は武田信玄の5男で士気が高く、これに従った小山田昌成や大学助も高遠城に入り守りを固め織田家との一戦に供えました。しかし、織田軍は3〜5万の軍勢だったのに対し、高遠城を守る城兵は3千人程度だったとされ、激闘を繰り広げたものの、次第に劣勢に追い込まれ最後は盛信をはじめ殆どの兵が討死する壮絶な戦いとなりました。この戦いは多くの武田家家臣が裏切りや逃亡した事から、唯一大軍どうしの戦となり、高遠城が落城した事で武田家の命運も事実上決した事になりました。
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