彦根城: 天守閣附櫓及び多聞櫓

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彦根城−天守閣:附櫓・多聞櫓
【 彦根城(天守閣:附櫓及び多聞櫓):概要 】 彦根の地は中山道と北陸道を押さえる事の出来る交通の要衝で、安土桃山時代には豊臣政権下で五奉行となった石田三成が佐和山城を居城とし大坂や京都へ進軍される事への押え役割を担いました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後は一転して徳川四天王の井伊直政が入りましたが、佐和山城は山城で行政や経済面では有効な城では無く、さらに石田三成色が余りにも強かった事から、早くから彦根城の築城が計画されました。明治4年(1871)に廃藩置県が施行されると彦根藩も廃藩となり、彦根城も破却される運命でしたが、明治11年(1878)に明治天皇が巡幸の折彦根を訪れた際、大隈重信、又はかね子(住持攝専夫人)が彦根城の保存を奉上した事で多くの施設が残される結果となりました。

附櫓及び多聞櫓は天守閣に付随するもので、附櫓は天守の向かって右奥に位置し、木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押え。多聞櫓は天守の向かって右側を守るように配され、木造平屋建て、切妻、本瓦葺き、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、石垣側には矢狭間と鉄砲狭間付。附櫓は天守と同時の慶長11年(1606)頃に建てられ、多聞櫓はそれよりもやや後年に建てられたと推測されています。

【 場 所 】 附櫓及び多聞櫓:滋賀県彦根市金亀町

【 備 考 】 昭和26年(1951)9月22日:国指定重要文化財・昭和27年(1952)3月29日:国宝

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