坂本城(大手門): 西教寺

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坂本城(大手門)−西教寺
【 坂本城大手門:概要 】 坂本城は元亀2年(1571)に織田信長による比叡山焼き討ち後に、信長の命で明智光秀により築かれました。既に光秀は信長の片腕としての地位を確立しており、坂本城は安土城に次ぐ規模と壮麗さを兼ね備えた名城だったとされます。光秀は坂本城を居城として比叡山の再興に尽力し、特に西教寺は城下に近かった事もあり総門や庫裏を寄進し明智家の菩提寺として整備しました。光秀は南近江を平定した後、丹波にも進出し天正8年(1580)には亀山城(京都府亀岡市荒塚町)の城主にも就任しましたが、引き続き坂本城の城主でもあり織田家の重責を担いました。天正10年(1582)光秀は織田家を見限り本能寺の変を発生させると、信長とその嫡男織田信忠を自刃に追い込みましたが、懇意にしていた大名から支持を得られず、さらに中国方面の司令官だった羽柴秀吉が反転してきたことで体制を整える前に山崎で決戦に及び大敗を喫しています。安土城を掌握していた明智秀満は光秀の敗戦の報を聞くと、安土城を放棄し坂本城に籠城しましたが、羽柴軍の猛攻により落城しています。その後、坂本城は秀吉方に接収され、北陸地方を押さえる柴田勝家を牽制する為に再建されたものの、天正14年(1586)に廃城となり、用材は新に築かれた大津城の為に利用されました。

西教寺の山門は坂本城の大手門と伝えられる建物で、丹羽長秀が再建した際に建てられ、廃城になった際に現在地に移築されたと思われます(案内板では天正年間に明智光秀により移築されたと記載されています)。切妻、本瓦葺き、一間一戸、高麗門形式、高さ6.4m、幅5.6m、柱や梁が太く城門としての風格を備えています。西教寺境内には明智家一族の供養塔が建立されています。

【 場 所 】 西教寺:滋賀県大津市坂本

【 備 考 】 −

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