富山県・高岡市福岡町・赤丸浅井神社

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【 概 要 】−赤丸浅井神社は養老元年(717)、奈良時代の高僧として知られた行基菩薩が巡錫で当地を訪れた際に霊地と悟り、高皇産霊神を勧請し本地仏として毘沙門天を安置したと伝えられています。平安時代中期に全国で朝廷から認められた神社を列記した延喜式神名帳には式内小社として記載され、当時から格式の高い神社だった事が窺えます。ただし、石堤の地に境内を構える浅井神社も延喜式神名帳に記載されている式内社を主張しており、長年の闘争が現在も決着していません(時の支配者によって肩入れする神社が異なり代理戦争の呈を成す事もあったとされ、本社争いで流血事件も起ったそうです)。参道に接するように古代の官道である北陸道が通り「川人駅」が設置されていた事からも比較的早くから開けていた地域で、「越中吉岡庄」は藤原氏の荘園だった事からも関係性が窺えます。中世に入ると浅井城の北東に位置する事から歴代浅井城(丸山城)の城主から鬼門鎮守として庇護され、戦国時代に当時の城主中山氏が上杉謙信に攻められると赤丸浅井神社もその兵火により大きな被害を受けたと伝えられています。北陸地方が織田信長の手に落ちると、越中国には家臣である佐々成政を配し、中山氏はこれに従いましたが、天正13年(1585)の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による富山の役で成政が敗北し越中国を去ると中山氏も浅井城を退去し、浅井城は廃城となっています。赤丸浅井神社は古くから神仏混合し別当には山伏西宝院があたり五位庄五十三ヶ村の惣社として広く信仰されていましたが、明治時代に廃寺に追い込まれ、独立した神社として社号を「浅井神社」に復しています。


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