女王国までの距離(結果編)

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邪馬台国は「倭」に存在するのか

定里=434m・採用一里値:[434m÷4=1085m]・[434m÷8=54.25m]・[434m÷16=27.125m]

今までの検討した事を合わせると上記のような結果となりました。帯方郡から1万2千余里は伊都国の都(平原遺跡)から東南に10.85kmに位置する奴国との国境に辿り着きました。そこは、現在の福岡県福岡市西区吉武付近(吉武高木遺跡には王墓有)にあたりますが、実際はその手前にある日向峠かも知れません。当サイトが卑弥呼の墳墓であると推定する平原遺跡1号墳は、棺の向きとその前方に建てられた高さ20m程の柱の延長上に日向峠が来るという極めて計画的に築造されたもので、一般的には太陽信仰と関係があると推定されています。しかし、日向峠が倭国と、女王国の国境であるならば、その意味合は変わり、卑弥呼が女王国の国々(21カ国)に対して睨みを利かせているとも言えます。

奴国は女王国を構成する21カ国に含まれている為、倭国である伊都国との国境は即ち、倭国と女王国の国境でもあります。「自郡至女王國萬二千餘里」の一文には「至」の字、すなわち、帯方郡から女王国の国境まで1万2千余里と、上記の結果は同義と言えます。それと同時に、女王国と邪馬台国は同義では無いという裏付けの1つでもあります。

さらに、「計其道里當在會稽東治之東」の一文を検証すると、帯方郡(現在のソウル市付近)から南に垂直し、会稽の東冶(中国福建省福州市)の東に交わる距離は地図上で1280km。1万2千里×108.5m(採用一里値)=1302km。と大凡合致している事から会稽の東冶は中国福建省福州市とみて間違いないようです。放射式を採用すると伊都国(福岡県糸島市前原)から南に垂直し、会稽の東冶(中国福建省福州市)の東に交わる距離は地図上で815km。水行10日×84.15km(「大唐六典」の水行1日)=841.5kmで大凡合致します。陸行30日×28.05km(「大唐六典」の陸行1日)=841.5kmで大凡合致します(会稽の東冶を中国浙江省紹興市とする説もありますが帯方郡(現在のソウル市付近)から南に垂直すると830kmとなり、逆に帯方郡からの水行10日又は陸行30日の距離に合致し文脈上は間違っている事になります)。

「問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」の一文があります。倭の地を訪問し、ぐるりと廻ると5千里余りになるだろうとの趣旨で、帯方郡の役人が実際に訪問したであろう、狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末蘆国、伊都国を往復すると(54.25km+86.85km+54.25km+16.275km+27.125km+54.25km)×2=584kmとなります(奴国不弥国には訪れていない為に不採用。往復では無く周旋と表現する事が勧進)。そして、5千里を魏志倭人伝上の一里の基本となる108.5mで計算すると542.5kmとなり大凡同じ値になります。陳寿は対馬海峡を渡る際に全行程で1万2千余里に合わせる為に一里あたりの距離を様々変えましたが、「周旋可五千餘里」を付け加える事で、実際は一里あたり108.5mで計算したかったと、訴えているような印象を受けます。これは、上記の「計其道里當在會稽東治之東」と同じ手法で、ある意味。陳寿の自尊心が現れているのではないでしょうか?

又、採用値での帯方郡から女王国の国境(奴国北西端)までの距離は1063.35km。あまり意味はありませんが平均で一里あたり約89m(あくまでも平均値で短里などではありません。)となり、公式の434mの約5分1、すなわち、魏志倭人伝では距離について約5倍誇張していた事になります。

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