彦根城: 天守閣

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彦根城−天守閣
【 彦根城(天守閣):概要 】 彦根の地は中山道と北陸道を押さえる事の出来る交通の要衝で、安土桃山時代には豊臣政権下で五奉行となった石田三成が佐和山城を居城とし大坂や京都へ進軍される事への押え役割を担いました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後は一転して徳川四天王の井伊直政が入りましたが、佐和山城は山城で行政や経済面では有効な城では無く、さらに石田三成色が余りにも強かった事から、早くから彦根城の築城が計画されました。しかし、直政は関ケ原の戦いで受けた傷が祟って慶長7年(1602)に死去し、彦根城の築城は長男である井伊直継によって引き継がれ、慶長11年(1606)頃に天守閣が竣工したと推測されています(解体修理の際に慶長11年の墨書が見つかっている事から同年か翌年頃に竣工)。彦根城は近江国内にあった大津城や長浜城、佐和山城など、廃城となった城郭から施設の移築や破却した際発生する用材などを利用し、天守閣については井伊家の歴史書である「井伊年譜」によると「天守は京極家の大津城の殿守也」の一文がある事から大津城の4重5階の天守閣を解体し改めて三重三階の天守として組み上げられたと推定されています。築城当時は豊臣秀頼が大坂城に健在だった事から、本来彦根城は軍事的な色彩が強いように思われますが、実際この天守閣は小規模ながら唐破風や千鳥破風、金箔の金物、懸魚の意匠、高欄、花頭窓など意匠に富み、権力を故事しているようにも見えます。井伊家は徳川家家臣の中でも譜代筆頭として幕府の要職に就いた為、歴代藩主は自領に戻る事が少なく天守閣も藩主が着用する鎧を置かれる程度と有効利用される事はなかったようです。明治4年(1871)に廃藩置県が施行されると彦根藩も廃藩となり、彦根城も破却される運命でしたが、明治11年(1878)に明治天皇が巡幸の折彦根を訪れた際、大隈重信、又はかね子(住持攝専夫人)が保存を奉上した事で多くの施設が残される結果となりました。

【 場 所 】 天守閣:滋賀県彦根市金亀町

【 備 考 】 昭和26年(1951)9月22日:国指定重要文化財・昭和27年(1952)3月29日:国宝

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