金古宿代官屋敷(旗本松田家陣屋・旧神保邸)

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金古宿代官屋敷(旗本松田家陣屋・神保家住宅)
金古宿の由来や特徴等を短く纏めた動画
【 金古宿代官屋敷:概要 】 金古宿(三国街道の宿場町)周辺は旗本松田家400石の領地で、松田家は定府勤務だった事から自領の有力者である神保家の邸宅に陣屋を設置し、神保家が歴代代官として領内の税の徴収や、細かな采配が行われました。松田家の祖である松田康長は北条氏康・氏政・氏直の3代に仕えた北条家譜代の家臣で奏者や奉行衆などの要職を歴任しました。天正15年(1587)に山中城(静岡県三島市)の築城に携わり、天正17年(1589)には山中城の城主に就任し、天正18年(1590)の小田原の役では豊臣方の主力の1つである豊臣秀次7万の軍勢を山中城で4千の兵で迎え撃ちましたが、僅か半日で落城し討死しています。その後、子供である松田直長は許され徳川家の旗本として家名を存続させています。一方、神保家は豪農として知られ金古宿の名主を歴任し名字帯刀を許されています。敷地内には表門、門番小屋、糾弾所、馬小屋、物置跡、ワカミヤサマ、主屋、ミソクラ、書類蔵、クラ、クラ跡、井戸、裏門などが残されています。

【 武家門:概要 】 表門は切妻、桟瓦葺、薬医門、一間一戸、総ケヤキ造り、袖壁上部には偲び返しと潜り戸付、向って右側に木造平屋建て切妻、桟瓦葺きの門番小屋、左側に木造2階建、寄棟、桟瓦葺、外壁は1階が下見板張り、2階は大壁造り白漆喰仕上げの糾弾所(建物の名称からは犯罪者等の取り調べが行われた施設と思われますが、案内板では圏舎:牢屋と記載されています)が付随しています。名称「金古神保家大門」として昭和52年(1977)に高崎市(旧群馬町)指定重要文化財に指定されています。又、柱に付けられた傷は慶応4年(1868)に一揆で襲撃された時のものとされます。

【 場 所 】 群馬県高崎市

【 備 考 】 三国街道は越後の寺泊と上州の高崎城の城下を結ぶ街道で、越後の諸大名の参勤交代や、幕府の佐渡奉行などが利用した為、屋敷の前も多くの往来者があったと思われます。当地は金古宿と呼ばれる宿場町だった事もあり街道沿いには多くの町屋建築が軒を連ねていました。

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