【概 要】−群馬県の江戸時代は館林藩(本城:館林城)、七日市藩(本城:七日市陣屋)、小幡藩(本城:小幡陣屋)、安中藩(本城:安中城)、沼田藩(本城:沼田城)、前橋藩(本城:前橋城)、高崎藩(本城:高崎城)、伊勢崎藩(本城:伊勢崎陣屋)、吉井藩(本城:吉井陣屋)が支配した地域です。前橋、高崎といった有力藩の城下町はそののまま都市化した為、武家町は失われましたが、館林は武鷹館(館林藩士邸宅)が現存しその周辺が閑静な住宅地として雰囲気が残されています。
特に武家町が残されているのが小幡で陣屋周辺には武家屋敷の遺構が点在し食い違いや土塀、長屋門などが見られます。安中には町としての雰囲気は感じられませんが、現在では極端に少なくなった武家長屋が現存し文化財指定されています。吉井には陣屋内にあった武家長屋が現存していますが、こちらは文化財指定も無く朽ちていく可能性があります。七日市には上級武家屋敷の遺構と思われる長屋門があり雰囲気を醸し出しています。
【館林市】−館林市は館林城の城下町として発展した町です。館林城の築城年は不詳ですが15世紀中頃に佐貫荘を掌握した赤井氏によって築かれたのが始まりとされます。伝説によると赤井照光が動けなくなった子狐を助けてると、神の化身と思われる白狐が出現し尾を曳きながら城郭の縄張りを教授したと伝えられ、「尾曳城」の別称があります。文明3年(1471)の「享徳の乱」の際、上杉家により攻められ落城しましたが、その後、赤井家が復権したようで城主に返り咲いています。戦国時代に入ると小田原北条氏に従った為、永禄5年(1562)に越後の上杉謙信の攻められ再び館林城は落城し赤井氏も没落しています。その後は、太田金山城の城主由良氏の支配下に入りますが謙信が死去すると上杉家内部で跡継ぎ争い(御館の乱)が起こり上野国の支配体制が空洞化した事で小田原北条氏が侵攻し、本城の金山城は守られたものの、館林城は北条方に接収されます。
天正18年(1590)の小田原の役では豊臣方の石田三成軍によって攻められ開城、北条氏没落後は徳川家康の関東移封に伴い館林城には重臣の榊原康政が配されます。館林城はその後、松平(大給)家、徳川家、松平(越智)家、太田家、松平(越智)家、井上家、秋元家が城主を歴任して明治維新を迎えています。明治4年(1871)の廃藩置県により館林藩は廃藩となりそれに伴い館林城も廃城となり、さらに明治7年(1874)の火災で多くの施設が焼失しました。
城下町の町割は榊原康政によるものが大きく、城下町全体を土塁と堀で囲う「総構え」が計画され、さらに外側には利根川と渡良瀬川が控えていました。館林城の南側は城沼と鶴宇川を防衛ラインとして押えにしていた為、武家町は東・西・北側方向に配され、商家町は武家町の西側に設けられました。明治維新後も土着する士族が多かった為、尾曳町では現在でも生垣や庭園を持つ住宅が多く武家屋敷町の名残が見られ、鷹匠町も中級武家屋敷の遺構が残されるなど雰囲気が感じられます。
【甘楽町】−甘楽町は小幡陣屋(嘉永3年:1850年、松平小幡藩3代藩主松平忠恵が城主格に昇進した為、以後は小幡城)の陣屋町(城下町)として発展した町です。小幡陣屋は寛永19年(1642)、3代藩主織田信昌によって設けられたのが始まりとされます。小幡織田家は織田信長の次男織田信雄を祖とする家系だった事から石高は2万石ですが、10万石国持大名の格式を得て陣屋の規模は小規模だったものの、本格的な大名庭園が設けられました。明和4年(1767)の明和事件により、織田信邦が高畠藩(山形県高畠町)に移封になると松平忠恒が入封し以後、松平家が小幡藩主を歴任し明治維新を迎えています。廃藩置県により小幡藩が廃藩になると小幡陣屋(小幡城)も排され、建物も破却されました。
明治時代以降、激しい近代化が無かった為、陣屋町(城下町)の雰囲気が随所に残り、特に陣屋までの大手筋には武家町の特徴がよく見られます。武家屋敷の多くは、敷地周囲を高石垣で囲い、その上部を生垣や板塀を設けています。又、入口部を喰い違い郭にする事で防御を成す武家屋敷や、小幡藩の大奥の庭園、中級武家屋敷の遺構である松浦家住宅、上級武家屋敷の遺構である高橋家住宅などが点在しています。
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