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涌谷城と妙見宮 |
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妙見宮(神明社) |
涌谷城:概要安土桃山時代から江戸時代にかけて涌谷城(要害)の城主となった涌谷伊達家は千葉常胤の3男である武石胤盛を祖としています。千葉氏は桓武天皇の血筋である桓武平氏と呼ばれる一族ですが当時の当主千葉常胤は源平合戦の際、源頼朝に従い大功を挙げた事から信任を得て大御家人の地位を確立しました。 その千葉一族の大きな特徴が北極星又は北斗七星を妙見神として称して信仰する事で家紋である月星紋や曜星紋は妙見神を模した意匠と云われ、涌谷伊達家の家紋は月星紋や月九濯紋などで千葉家一族の流れを汲む事が窺えます。 神仏習合後は妙見菩薩が本地仏として祭られ、特に優れた視力を持つ仏で善悪や真理をよく見通すとされ、国土を擁護する武神としても信仰されました(千葉一族の中で大名として存続した相馬家も妙見信仰に傾倒した一族で、本城である中村城の城内の他、妙見神社(現在の相馬中村神社)が創建されています)。 当然のように武石胤盛をはじめその後裔の亘理氏も妙見菩薩を篤く信仰し、天正19年(1591)に伊達政宗に従い涌谷城の城主になった亘理定宗も涌谷城の城内に妙見宮を創建しました。 寛文3年(1663)には4代伊達(亘理)安芸宗重によって現在地に遷座し、元禄11年(1596)に5代伊達(亘理)宗元が現在の拝殿(旧本殿)を造営、享和3年(1803)に11代伊達(亘理)村常が現在の本殿と長床(神社山門)を造営しています。涌谷城と妙見宮の位置関係は本丸から見ると略真東で、個人的には妙見菩薩が北極星(北辰)の化身ならば本来城の北側に位置するのが本筋と思いますが、何故東なのかは謎です。 妙見宮:動画
涌谷城(要害):動画
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