【第四次川中島の戦い】−関東管領に就任した上杉謙信(春日山城の城主)は永禄4年(1561)に関東地方に進出し、小田原北条氏の居城である小田原城(神奈川県小田原市)を取り囲みましたが、落城には至らず膠着状態が続きました。すると、北条家と同盟関係にあった武田信玄は川中島に近い海津城(松代城)を拠点にして北信濃に進出した為、謙信は関東から撤退を余儀なくされました。謙信は目標を海津城(松代城)を攻略に切り替え、北信濃を掌握し、後顧の憂いを無くしてから再度関東進出を目論見、川中島を見下ろせる妻女山に陣を張りました。陣容は謙信は1万3千の兵を率いて妻女山に布陣し、後方支援や補給、補給路の確保の兵が善光寺(長野県長野市)に5千を配させ、対する信玄は2万の兵を率いて一端、塩崎城(長野県長野市篠ノ井塩崎)に入り、様子を見てから海津城(松代城)に入りました。その後、双方膠着状態が続き、最初に痺れを切らした武田方の軍師山本勘助は軍を2手に分け、1手が妻女山を攻撃し、下ってきた上杉軍を残りの1手が迎え撃ちという、所謂「啄木鳥戦法」を具申し受け入れられました。9月9日の深夜、別働隊1万2千を編成した武田家の重臣高坂昌信と馬場信房は海津城(松代城)から妻女山に向けて出陣、武田信玄は残りの8千を本隊として、上杉軍が下ってくると予想された八幡原に布陣しました。翌日の早朝、川中島は濃い霧が発生し視界が遮られる中、その霧が晴れると、武田方の目前に既に臨戦態勢を整えた上杉方の軍勢の姿が現れました。一説によると上杉謙信(春日山城の城主)は妻女山から見下ろした際、武田方の行動に不審な点が幾つも見られた事から、作戦を見破り、深夜のうちに全軍が山を下り川中島に布陣し「車懸りの陣」により絶え間なく武田方に攻撃を加え武田信繁をはじめ、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次などの主要な家臣を次々に討ち取ったとしています。しかし、戦いが長引くと、武田方の別働隊1万2千が妻女山から急襲し、今度は武田方が上杉方を挟撃する陣容となり、謙信は不利を悟り、本陣のあった善光寺まで一端退き、その後、越後に引き上げました。武田方も追撃する余力が残っておらず結局兵を引いています。損害自体は主要な家臣や数多くの兵を失った武田軍の方が甚大でしたが、上杉謙信の目標だった海津城(松代城)攻略は出来なかった事から作戦的には失敗しています。
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