福知山城: 銅門番所

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福知山城−銅門番所
【 福知山城銅門番所:概要 】 福知山城の前身は室町時代に当地を支配した国人領主塩見頼勝によって築かれた掻上城とされます。頼勝を継いだ塩見信房の代に横山城に改名しましたが、戦国時代に織田家が丹波国に侵攻し、その司令官だった明智光秀に攻められ塩見信房、信勝兄弟は自刃し落城しています。光秀が丹波国を平定すると、福知山城に改名、近世城郭へと拡張整備が行われ、重臣である藤木権兵衛と一族である明智秀満を城代として配しています。江戸時代に入ると福知山藩が立藩、初代藩主となった有馬豊氏がさらなる整備を行い、現在見られる城郭や城下町の基礎が築かれました。その後は岡部氏や稲葉氏、松平氏、朽木氏が藩主を歴任し明治維新を迎えています。

銅門番所は福知山城の二の丸に設けられた銅門の出入りを管理する番所です。城内の中でも二の丸、本丸は福知山藩の中枢だった事から許可なく侵入する事は許されず、特に銅門は大手筋に配されていた事から番所や門の前に藩士を詰めさせ厳しく制限しました。銅門の名称の由来は大手筋に配されている事から見栄えと格式を尊重し使用している金物を銅を採用した事で、明治20年(1887)頃まで城内に残されていましたが、明治31年(1898)に正眼寺(京都府福知山市寺町)の山門として移築されました。一方、番所は大正5年(1916)に福知山城の天守台の小天守跡地に移築されましたが、昭和59年(1984)に天守閣が再建される事になり、現在地である天守台の下の本丸跡地に移されました。番所は木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、平入り、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ(軒下まで仕上げる塗屋造り)、平面は左右を前に張り出すコの字型となっています。

【 場 所 】 銅門番所:京都府福知山市内記

【 備 考 】 昭和40年(1965)10月14日:福知山市指定史跡

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