宮津城: 太鼓門

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宮津城−太鼓門
【 宮津城太鼓門:概要 】 宮津城は安土桃山時代の天正8年(1580)、丹後国の領主となった細川藤孝(幽斎)によって築かれた平城です。藤孝は隣国の丹波国領主明智光秀と昵懇の間柄でしたが、天正10年(1582)の本能寺の変では光秀を見限り田辺に隠居し出家しています。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで細川氏は東軍に与した事で豊前藩に加増移封となり、代わって京極高知が12万3千石で入封に宮津藩を立藩しました。宮津城は京極高知、高広によって藩庁、藩主居館を備える近世城郭へと拡張整備され、その後は永井氏、阿部氏、奥平氏、青山氏、松平〔本庄〕氏が藩主を歴任し明治維新を迎えています。

宮津城太鼓門(馬場先御門)が何時頃に建てられたのかは判りませんが、城の南側にあった城門とされ、隣地に城内に時を知らせる太鼓櫓があった事から太鼓門と呼ばれるようになったとされます。明治4年(1871)の廃藩置県により宮津藩は廃藩、宮津城は廃城となり多くの施設は破却、又は民間に払い下げになったものの、明治6年(1873)に学制が発布され、旧藩校だった禮譲館が宮津校になると太鼓門は学校の正門として移築されました。大正7年(1918)、当時は宮津女子尋常高等小学校でしたが、敦賀にあった男子校が統合する事になり、それに伴い道路の拡幅工事や校舎の増改築工事が行われ、太鼓門は校庭東側の東門として移築されました。平成22年(2010)、宮津城城下町の町並み整備に伴い、旧学校正門だった頃に近い現在地に再び移築されています。太鼓門は切妻、本瓦葺き、一間一戸、四脚門、袖壁付。

【 場 所 】 太鼓門:京都府宮津市外側

【 備 考 】 平成23年(2011)1月10日:宮津市指定史跡

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