佐和山城(大手門): 宗安寺

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佐和山城(大手門)−宗安寺
【 佐和山城大手門:概要 】 佐和山城は鎌倉時代初期に近江国守護職である佐々木定綱の6男佐保時綱によって築かれました。室町時代になると佐々木家の後裔である六角氏の管理下となり家臣である小川氏などが城主として配されていました。戦国時代に入ると浅井氏が台頭し佐和山城も接収されましたが、織田信長(安土城の城主)と対立するようになると織田勢の侵攻を受け元亀2年(1571)に落城し、織田家家臣丹羽長秀が配され、同年の姉川の戦いや天正元年(1573)の小谷城の戦いなどで拠点として利用されています。天正10年(1582)の本能寺の変後は堀秀政に佐和山城が与えられ、天正18年(1590)に石田三成が配されるまで堀家が城主を歴任しました。三成は佐和山城を近世城郭へと、拡張整備を行い、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と詠われる程の名城だったとされます。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで三成が主導する西軍が大敗すると、東軍は佐和山城に攻撃目標を定め特に本戦で活躍出来なかった諸将は功を得る為に一斉に襲い掛かり、石田方の多くが討死、又は自刃し落城に到っています。戦後、佐和山城には徳川家の重臣井伊直政が高崎城(群馬県高崎市)から入封しますが、すぐさま彦根城の普請に取り掛かり、慶長11年(1606)に一応、政務と生活に支障がない程度に彦根城が出来上がると、本城を移し佐和山城は廃城となっています。

宗安寺は元々、井伊家の本城だった高崎城(群馬県高崎市)の城下町に境内を構えていましたが、佐和山城に移封に伴い佐和山城下に遷り、さらに彦根城に遷ると現在地に移されています。表門は慶長8年(1603)に佐和山城の大手門を移築したものと伝えられ、形式は、切妻、本瓦葺き、一間一戸、木部朱塗り、薬医門、見た目から「赤門」の別称があります。又、宗安寺本堂には、石田三成と関係が深かった瑞岳寺が所有していた三成の念持仏(千体仏)と地蔵菩薩像(石田地蔵尊)が保管されています。

【 場 所 】 宗安寺:滋賀県彦根市本町

【 備 考 】 昭和23年(2011)12月20日:彦根市景観重要建造物

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