皆川城(搦手門): 大中寺

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皆川城(搦手門)−大中寺
【 皆川城搦手門:概要 】 大中寺11世建室宗寅は戦国時代に駿河国と遠江国の大大名今川義元の弟とされ、永禄3年(1560)に今川家が没落すると出家し大中寺に入ったそうです。その後、徳川家康と昵懇の仲となり、家康が大中寺を訪れた際、山門が余りにも古くなっていた事から皆川城の搦手門を移築する事を約束し、宗寅が死没すると3回忌に合わせて元和2年(1616)に現在地に移築されたと伝えられています(ざっと調べた限りでは、家系図上今川義元の弟で建室宗寅にあたる人物は見当たりません)。個人的には大中寺は境内に皆川山城守隆庸の息女の供養塔が建立されているなど皆川家と関係が深かった事から天正19年(1591)に皆川城が廃城になり破棄された際に移築されたのではないかと思っています。元和2年(1616)は家康が死没した年でもあり、1月に鷹狩で倒れて4月に死没するまで基本的に病床にあった為、家康の指示で皆川城の搦手門を移築されたとは考え難い印象を持っています。搦手門は切妻、桟瓦葺き、平入、三間一戸、四脚門形式。

【 皆川城:概要 】 皆川城の築城年は不詳ですが、鎌倉時代初期の寛喜年間(1229〜1232年)に皆川宗員が築いたと伝えられています。しかし、鎌倉時代末期の元享3年(1323)、当時の幕府執権北条高時と対立し没落し皆川城も荒廃したと思われます(当地では無く、白山台にあったとも)。15世紀後半頃に長沼氏秀が皆川を拠点として版図を広げ、跡を継いだ宗成が地名に因み皆川氏を名乗るようになり、第二次皆川氏の祖となっています。当初は独立性を保っていましたが、宇都宮氏の台頭により不安定な状況となり、小田原北条氏に従う事で協力を得て一時戦局を有利に進めるも、その後は両家の間を離反、従属を繰り替えしています。天正18年(1590)の小田原の役では当時の城主皆川広照は北条方に与し小田原城(神奈川県小田原市)に立て籠もった為、皆川城は豊臣家に従った大名達に攻められ開城に及んでいます。広照は以前から徳川家康に好を通じていた事もあり、早々と戦場を離脱し降伏した為、旧領を安堵されたものの天正19年(1591)に皆川城を廃城とし栃木城に遷っています。

【 場 所 】 大中寺:栃木県栃木市大平町西山田

【 備 考 】 大平町指定文化財

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