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栃木県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
佐野市 |
佐野城 |
表門 |
惣宗寺 |
移築城門:切妻、本瓦葺 |
− |
佐野市 |
佐野陣屋 |
御殿表門 |
東光寺 |
山門:切妻、桟瓦葺、一間一戸 |
− |
佐野市 |
佐野陣屋 |
陣屋門 |
法雲寺 |
山門:切妻、桟瓦葺、一間一戸 |
− |
佐野市 |
佐野陣屋 |
陣屋門 |
民家 |
切妻、桟瓦葺、一間一戸 |
− |
足利市 |
足利陣屋 |
表門 |
民家 |
移築城門:入母屋、桟瓦葺 |
− |
栃木市 |
畠山栃木陣屋 |
表門 |
岡田家住宅 |
切妻、桟瓦葺 |
国重伝 |
二宮町 |
桜町陣屋 |
主屋 |
主屋 |
文政6年:木造平屋建、寄棟、茅葺 |
国史跡 |
那珂川町 |
武茂城 |
大手門 |
乾徳寺 |
山門:安永2年改修、切妻、銅板 |
町指定 |
下野市 |
関宿城 |
大手門 |
飲食店 |
長屋門:入母屋、桟瓦葺、白漆喰 |
− |
大田原市 |
黒羽城 |
城門 |
大聖寺 |
山門:切妻、銅瓦棒葺、三間一戸 |
− |
大田原市 |
烏山城 |
搦手門 |
民家 |
切妻、銅板葺、一間一戸、高麗門 |
− |
喜連川町 |
喜連川陣屋 |
裏門 |
民家 |
長屋門、入母屋、銅板葺 |
− |
鹿沼市 |
壬生城 |
城門 |
民家 |
切妻、本瓦葺、一間一戸、高麗門 |
− |
小山市 |
壬生城 |
城門 |
民家 |
切妻、本瓦葺、一間一戸、薬医門 |
− |
那須町 |
芦野陣屋 |
裏門 |
民家 |
長屋門 |
町指定 |
大平町 |
皆川城 |
城門 |
大中寺 |
山門:切妻、桟瓦葺き、三間一戸 |
町指定 |
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当地は藤原秀郷の後裔の一族とされる佐野氏が長く支配した地域で、当初は唐沢山城を居城としていました。唐沢山城は上杉謙信(春日山城の城主)の侵攻を食い止めた堅城として知られ、関東平野を一望出来る要地だった為(城内から江戸城が俯瞰出来たとされます)、江戸時代に入ると豊臣系の大名だった佐野氏は幕府の遠慮や山城禁止令などから、慶長12年(1607)に唐沢山城を廃城として麓に佐野城(佐野市指定史跡)が築かれました。佐野城は惣宗寺(佐野厄除大師)が境内を構えていた春日岡(標高:56m)を利用して築かれた平山城で近代城郭として整備されましたが慶長19年(1914)佐野氏が改易となりそのまま佐野城も廃城となりました。惣宗寺の山門は佐野城が廃城後に城門を移築したもので、切妻、本瓦葺き、三間一戸。
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延宝7年(1679)、畠山政長(室町幕府管領)の後裔である畠山基玄が高家として認められ元禄2年(1689)に新たに2千9百石の加増を受け合計5千石となり、領地である当地に陣屋を構える事になりました。実際は当地を開発した豪農、豪商である岡田嘉右衛門家が畠山家の代官として13ヶ村を支配し、岡田家の屋敷内に陣屋として機能が備えられました。異彩を放つ陣屋門の他、通用門と陣屋の表玄関が遺構として残され、日光例弊使街道沿いに屋敷を構えていた事から、通用門から庭園を経て表玄関に至る配置は本陣的な屋敷構えに類似し、実際、文人墨客なども岡田家に逗留し文化交流が盛んに行われています。現在は岡田記念館として一般公開され、周辺も日光例弊使街道の宿場町としての町並みが色濃く残り、国の重要伝統的建造物群保存地区(栃木市嘉右衛門町)に選定されています。
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桜町陣屋は、別称で宇津氏出張陣屋とも呼ばれ、元禄12年(1699)小田原藩主大久保忠朝の3男である宇津教信が小田原藩から桜町三ヵ村4千石が分知され陣屋が設けられました。度重なる天災などで荒廃が続き江戸時代後期には石高が1千石程度まで落ち込み壊滅寸前まで追い込まれましたが、文政5年(1822)、小田原藩7代藩主大久保忠真の命で桜町陣屋に赴任した二宮尊徳(元々農民出身でしたが財政再建の才能が卓越していた事から小田原藩の家老服部家の奉公人に抜擢され、さらに実績を買われ、桜町領に派遣された)は後に「報徳仕法」と呼ばれた「至誠」、「勤労」、「分度」、「推譲」、「積小為大」、「一円融合」などの教えを領民に浸透させ復興を果たしました。現在の桜町陣屋建物は文政6年(1823)に建てられたもので、木造平屋建、寄棟、茅葺、平入、意匠などは質素ですが上段之間や次之間、式台付の玄関など当時の陣屋建築の様式を現在に伝える貴重な建物です。桜町陣屋は国指定史跡に指定されています。
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武茂城の築城年は不詳ですが正応・永仁年間(1288〜1299年)頃に宇都宮家7代目当主宇都宮景綱の子供である武茂泰宗によって築かれたのが始まりと伝えられています。武茂氏は宇都宮家の有力の一族として度々、宇都宮家当主を輩出し、逆に宇都宮家からも名跡が継がれた関係でしたが、戦国時代には独立した行動を見せ永禄3年(1560)に常陸国で大きな影響力があった佐竹氏に属しました。その後、武茂氏は常陸領内に移封となり、変わって佐竹氏の家臣である太田五郎左衛門資景が武茂城の城主として赴任しましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで佐竹氏が東西中立を保った為、久保田城に移封となり武茂城もそれに伴い廃城となっています。武茂氏の菩提寺である乾徳寺(栃木県那珂川町)の山門は武茂城が廃城になった際、移築されたと伝えられる建物で切妻、銅板葺、一間一戸、四脚門、那珂川町指定文化財に指定されています。
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