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 気多大社(能登国一宮)

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気多大社

気多大社(石川県羽咋市:能登国一宮)
気多大社石川県羽咋市)何時頃から発生したのかは明確な記録が無く、「気多神社縁起」や「気多社島廻縁起」、「気多社祭儀録」などの古文書にはそれぞれ異なる由緒が記されています。由緒の多くが気多大社の祭神である大己貴命(大国主命)の英雄譚ですが、元々は日本海側を中心に信仰の広がりがある事や六国史で「気太神」や「気多大神」などと記載されている事から元々は地主神と思われる気多神を祭る神社だったものが、中央に組み込まれるようになり次第に天皇家の縁のある大己貴命(大国主命)が祭られるようになったとも考えられます。古代の境内周辺は羽咋国造の支配地で、羽咋国造一族の墳墓と思われる古墳が点在、祖神が祭られている羽咋神社には気多大社と似たような由緒が伝えられる事からも関係性が興味深いところです。又、石川県七尾市に鎮座する能登生国玉比古神社の社伝によると、崇神天皇の御代に能登生国玉比古神社の祭神の分霊が勧請され気多大社が創建され、別称として気多本宮と呼ばれているとし、例祭の平国祭では能登生国玉比古神社の祭神が気多大社まで渡御する神事が行われます。気多大社の記録での初見は「万葉集」で、天平20年(748)に越中国の国司として当社を参拝した大伴家持が詠った「志雄路から 直越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫もがも しをぢから ただこえくれば はくひのうみ あさなぎしたり ふなかぢもがも」の歌が掲載され、「続日本書紀」には神護景雲2年(768)に封戸20戸・田2町が安堵された事が記録されています。気多大社は平安時代後期になると神仏習合し斉衡2年(855)には神宮寺となった亀鶴蓬莱山正覚院の前身となる寺院が「気多太神宮寺」に寺号を改め、その他にも長福院、地蔵院、薬師院が別当寺院として祭祀を司りました。鎌倉時代に入ると幕府からの庇護を受け建保5年(1217)には3代将軍源実朝から社領11町が寄進され、その後は能登国守護の畠山氏(明応8年:1499年、畠山義元が社領の寄進、永禄5年1562年、正親町天皇の勅許により畠山義綱が本殿を造営、天正元年:1573年、畠山義慶が若宮神社と白山神社の社殿を造営)、戦国時代に畠山氏が没落すると上杉謙信、菅屋長頼、土肥親真、江戸時代には歴代加賀藩主前田家(天正10年:1582年、前田利家300俵を寄進、慶長5年:1600年、初代藩主前田利長が社領200石を安堵、明暦3年:1657年に2代藩主前田利常が社領150石を加増、合計350石が安堵。)が崇敬庇護されています。

気多大社の神社山門(国指定重要文化財)は天正12年(1584)に造営されたもので、切妻、桧皮葺、一間一戸、四脚門、随神門(石川県指定有形文化財)は天明7年(1787)に加賀藩10代藩主前田治脩により造営されたもので、切妻、桟瓦葺、三間一戸、八脚単層門、内部に随神安置、神仏習合の名残が感じられます。日本神社100選

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