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 刈谷沢神明宮(青柳宿)

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刈谷沢神明宮・神社山門:写真

刈谷沢神明宮(善光寺西街道:青柳宿)

刈谷沢神明宮:概要

刈谷沢神明宮(長野県筑北村)が何時頃から祭られていたのは判りませんが、境内周辺は伊勢神宮(三重県伊勢市)の荘園(御厨)だった事から、その守護神として伊勢神宮の祭神である天照皇大神を祭ったのが始まりとされます(同じく、善光寺西街道の宿場町である麻積宿には麻積神明宮が鎮座しています)。鎌倉時代に入ると青柳氏が伊勢神宮の麻績御厨預職として当地に赴任し、その役職上、刈谷沢神明宮を篤く庇護しています。青柳氏は長く当地を支配ししたが、戦国時代には信濃守護職の小笠原氏に従属するようになり、天正15年(1587)には最後の当主となった青柳頼長が松本城(長野県松本市)に呼び出された際、謀略により小笠原貞慶から殺害され青柳氏は滅亡します。刈谷沢神明宮は庇護者を失ったものの、坂北郷12カ村(乱橋村、西条村、東条村、大沢新田村、刈谷沢村、中村、青柳町村、竹馬村、仁熊村、別所村)の惣社だった事もあり、逸早く再興され引き続き祭祀を続けられました。毎年3月第2日曜日に行われる「作始め神事」は手作りの牛を引いて代掻きの真似事をし、氏子達が牛を目掛けて雪玉を投げつけ、今年の作物の予祝する田遊び行事で、古式を伝える貴重な行事である事から長野県指定無形民俗文化財に指定されています。総門(神社山門)は刈谷沢神明宮最古の木造建築物で、切妻、鉄板葺き、妻入、四脚門。

青柳宿:概要

青柳宿は鎌倉時代初期に青柳氏が麻績御厨預職として当地に赴任し、居城である青柳城を築き、その城下町として発展しました。青柳氏は戦国時代末期に小笠原氏に謀殺され滅亡、青柳城も廃城となりましたが、江戸時代に入り善光寺西街道が開削されると宿場町(青柳宿)として整備されました。青柳宿の宿場の長さは東西約600m、急坂には石垣を汲んで用水路を通し、東方には横町があり家数が89軒程だったとされます。本陣兼問屋は、青柳氏の一族の後裔が引き続き宿場の支配層として君臨し、その屋敷も青柳宿のその他の町屋建築と比べても異彩を放っています。又、横町の外れには切通が2カ所あり往時の善光寺西街道の名残が見られます。

善光寺西街道:概要

善光寺西街道は江戸時代に当地域の大消費地だった、善光寺宿(長野県長野市信州善光寺の門前町・松代藩の藩都、松代城の城下町を上回る程に繁盛したとされます。)と松本宿(松本藩の藩都であり、松本城の城下町)を結ぶ事が主目的として開削された街道で、幕府から五街道の一つとして選定された中山道の宿場町である洗馬宿(長野県塩尻市)から分岐して、丹波島宿(長野県長野市)で北国街道に合流しました。基本的には大名の参勤交代では利用されませんでしたが、物資の流通経路、善光寺詣での参拝道として利用されました。

長野県の神社山門
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