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 神社山門: 旦飯野神社と笹岡城

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旦飯野神社

旦飯野神社(新潟県阿賀野市)と笹岡城

旦飯野神社:概要

旦飯野神社(新潟県阿賀野市宮下)は平安時代に成立した延喜式神名帳に記載された旦飯野神社の論社として知られていますが、創建年などの詳細は客観的な資料が無く良く判っていません。社伝によると現在の神官の祖となる長野麿が応神天皇の御弓、衣、石を奉斎したのが信仰の始まりとされます。応神天皇は第15代天皇とされますが、実在説と架空説があり、実態が良く判らない天皇の1人で、父親である仲哀天皇、母親である神功皇后も同じく実在説と架空説があります。その後、応神天皇は八幡神として信仰の対象となり、特に源氏の氏神として知られるようになると中世の武家政治以降全国で爆発的に祭られるようになっています。社伝では仁徳天皇元年8月15日に大山守皇子へ貢物を行った際、角鹿笥大神、飯津神を奉祭すれば旦飯野神社を名乗っても良いとの御告げがあったそうです。その後、領主である山浦氏が旦飯野神社の神官も兼ねるようになり政教一致の政策が採られました。山浦氏は山内上杉憲方の子供である憲重が越後の白川荘山浦(現在の新潟県阿賀野市)に配された際、地名に因み山浦氏を名乗ったのが始まりとされ笹岡城を居城としました。その後、継嗣無く断絶しましたが村上国清が上杉謙信(春日山城の城主)の許しを得て山浦家の名跡を継ぎ山浦国清と名乗り、上杉謙信の跡目争いである御館の乱で、上杉景勝に与し勝利に貢献した事から「景」の字を賜り「景国」に改めています。村上氏は元々信州の国人領主で諏訪氏、小笠原氏、木曾氏と共に信濃四大将に数えられていましたが、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)の信濃侵攻により上杉謙信を頼り越後に逃れ、天正10年(1582)に武田家が滅び、織田信長(安土城の城主)が本能寺の変で倒れると、信州北部が上杉領となり、山浦国清が海津城(後の松代城長野県長野市松代町)に配され復権を果たしています。代わって、笹岡城には今井源右衛門国広が入り、引き続き旦飯野神社を庇護しましたが、天正13年(1585)に新発田重家によって攻められ落城、さらに、新発田城が落城し新発田重家の乱が終結すると笹岡城の重要性が失われ廃城となっています。江戸時代に入ると村上藩(新潟県村上市:本城−村上城)の藩主から庇護を受けています。旦飯野神社は創建以来、7度社殿を建て替えたとされ、明確なものは永正3年(1506)5月20日と享保4年(1719)10月、寛政4年(1792)3月で、永正3年(1506)の時は元宮(地名)の地に鎮座し、寛政4年(1792)の時に現在地に遷座しています。又、八幡神を祭っていた事から何時しか山浦八幡宮と呼ばれるようになっていましたが明治時代の神仏分離令を経て旦飯野神社に改めています。延喜式神名帳に記載されていた旦飯野神社は新潟県新潟市新津に鎮座する旦飯野神社も論社で、両社とも明確な確証はないそうです。

新潟県の神社山門
旦飯野神社(笹岡城)諏訪神社(新発田城)蒼柴神社(長岡城)藤基神社(村上城)弥彦神社
魚沼神社(弥彦神社)
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