久能山城(城門): 東照宮

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久能山城(城門)−久能山東照宮
【 久能山城:概要 】 久能山城が何時頃築かれたのかは判りませんが、南北朝時代に南朝方の武将である入江駿河守が山頂に境内を構えた久能寺を砦として利用した記録が残されています。その後の経緯は再び不詳となり、次に歴史的に明確になるのは戦国時代の永禄11年(1568)、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)が駿河の今川氏領に侵攻した際、今川氏の居城である駿府城を攻めるにあたり、城下と背後の太平洋を見下ろせる当地に戦略的な拠点として整備しました。山頂付近には引き続き久能寺が境内を構えていた事から、他所に移動させ永禄12年(1569)に本格的な城郭が築造され家臣である今福閑斎・今福丹波守を城将として配されました。天正3年(1575)に長篠の戦で武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗北すると徳川家は武田領に本格的に侵攻するようになり、天正10年(1582)に遂に久能山城を徳川方が攻め、城将今福丹波守は開城し本領に撤退しています。久能山城には徳川家の家臣が配されましたが、天正18年(1590)に家康が関東に移封となり、代わって豊臣秀吉に従った中村一氏が駿府城に入り、中村氏の管理下となります。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで徳川方が勝利すると、慶長6年(1601)に旗本衆の大久保弥一郎忠政、慶長11年(1606)には榊原清政が駿河有度郡3千石で城代となります。元和2年(1616)に家康が駿府城で死没すると、遺言に従い久能山で遺体が埋葬する事となり、久能山城は廃城、愛宕郭直下の平場には家康の廟所、本丸には東照宮の社殿が造営されました。久能山東照宮が創建されると、城代だった榊原氏が引き続き、境内の守衛を担い明治維新までその任を歴任しています。

久能山東照宮の一ノ門が久能山城の大手門に当たり、入った正面には門衛所が設置され、榊原氏配下の者が参拝者の人物改めや荷物改めを行い出入りを制限していました。一ノ門は切妻、銅板葺、三間一戸、正面向かって右側に潜戸付、四脚門形式。

【 場 所 】 久能山東照宮:静岡県静岡市駿河区根古屋

【 備 考 】 久能山東照宮境内一円:国指定史跡

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