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 神社山門: 櫛引八幡宮

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櫛引八幡宮

櫛引八幡宮(青森県八戸市)
【 概 要 】−櫛引八幡宮の創建は仁安元年(1166)、甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の4男加賀美遠光が源氏の氏神である八幡神の分霊を勧請したのが始まりとされる神社です。当初は甲州南部庄(現山梨県南部町)に鎮座していましたが、建久2年(1191)に南部家の祖とされる南部光行が陸奥国の糠部5郡が与えられ下向した際、六戸の瀧ノ沢村に遷座し、貞応元年(1222)に現在に遷座しました。以後、南部家の総鎮守、南部一ノ宮と称され、代々南部家(盛岡藩主)から崇敬庇護されました。

【 場 所 】−青森県八戸市八幡八幡丁

【 構 造 】−切妻、銅板葺、一間一戸、四脚門、国指定重要文化財

【 備 考 】−櫛引八幡宮の奉斎者である南部家は清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美二郎遠光の3男三郎光行が甲斐国巨摩郡南部郷(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に配され「南部」姓を名乗ったのが始まりとされます。光行は文治5年(1189)の奥州合戦に従軍し大功を挙げ陸奥国糠部5郡が与えられたとされますが、南部家と津軽家はお互いの正当性を主張する為に戦国時代に家系図や家伝など大きく改変した可能性が高く、それを補完する客観的な資料が極端に少ない為、事実かどうかは不詳。

一般的な解釈として糠部5郡という表記の仕方がおかしく、糠部郡の中の5郷の事を誇張する為に創作したのかも知れません。その、糠部郡にしても宝治元年(1247)の宝治合戦(三浦氏の乱)後は北条執権家の得宗領になっている事から実際は一部の郷の地頭代だった事が想定され、あくまで甲斐国巨摩郡南部郷が本拠だったと思われます。

鎌倉幕府の倒幕運動や南北朝時代初期の南部宗家の動きは不明瞭で、逆に根城南部家の当主南部師行は新田義貞に従い倒幕に功があり、南北朝の動乱では南朝方として行動し糠部郡の郡代に抜擢されています。南部宗家である三戸南部家が奥州北部で地位が確立したのは南北朝時代の争乱が終結した南部守行の代と考えるのが自然と思われます。

そういう意味では、櫛引八幡宮が何時頃創建されたのかは不詳とするのが正確で、「南部 一ノ宮」、「南部の総鎮守」と称され三戸南部家が篤く庇護した割には本拠である三戸では無く、根城南部氏の本拠である八戸に鎮座しているという矛盾があります。

櫛引八幡宮:動画

根城:動画

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