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神明神社(岐阜県瑞浪市) |
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大湫神明神社 |
神明神社:概要江戸時代に入り大湫宿の往来が多くなると名所の一つとして知られるようになり、江戸時代中期の文人で狂歌師だった太田南畝が大湫宿を訪れた様子を「駅の中なる左の方に大きなる杉の木あり、その元に神明の神社の宮を建つ」と著書「壬戌紀行」で記しています。神社山門は切妻、桟瓦葺、三間一戸、八脚単層門、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押え、通路上部の桁は曲がり材採用。 大湫宿:概要大湫宿(岐阜県瑞浪市)は中山道の宿場町として町割りされた町で、案内板によると「 大湫宿は大久手とも書かれ江戸から47番目の宿で、慶長9年(1604年)海抜510mのこの地に設けられた新宿です。宿の長さは東西に3町14間(約350m)、文久元年(1861年)の戸数86戸、うち旅籠屋45軒で、尾州藩領でした。宿の誇りは、大空にそびえ立つ神明神社の大杉や観音堂、それに皇女和ノ宮の泊り宿になったことや、東の十三峠・西の琵琶峠など沿道からの四季の眺めの美しさでした。」とあります。 大湫宿は峠に囲まれている事から数多くの旅籠が存在していましたが、火災が多く、江戸時代後期には尾張藩から莫大な借金をして何とか宿場の財政を支えている状態でした。文久元年(1861)の和宮親子内親王(仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹)が徳川将軍家に降嫁の際に大湫宿で宿泊すると、この費用がさらなる財政悪化を招き慶応元年(1865)には借金が4千両に登り困窮を極めました。 明治時代以降は大規模な近代化が図られなかった為、大湫宿には江戸時代末期から明治時代にかけての町屋建築が数億残され、その内の4軒が国登録有形文化財に登録されています。 大湫神明神社:動画
大湫宿(中山道):動画
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