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 常陸国総社宮(茨城県石岡市)

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常陸国総社宮・神社山門:写真

常陸国総社宮(茨城県石岡市)

常陸国総社宮:概要

常陸国総社宮(茨城県石岡市)の境内は日本武尊の旧跡とされ、日本武尊が東国平定の際、当地を宿営地とし翌朝、新治村を目指し出立したと伝えられています。境内に残されいる腰掛石は日本武尊が腰を下ろし訪れ眼下に広がる景色を眺めたと伝えられるもので、現在は木柵が張られ神聖視されています。日本武尊は奈良時代に成立した現存する日本最古の歴史書である「古事記」や「日本書紀」に登場する英雄で、確かに東国の平定を命じられ完遂した事が記載されています。「古事記」や「日本書紀」での記載はありませんが、岩手県の南部にまで日本武尊の伝説が残され常陸国総社宮もその一つになっているようです。因みに奈良時代の養老年間(717〜723年)に編纂された推定される常陸国風土記には日本武尊の事と思われる「倭武の天皇」が数回登場し、倭武天皇が橘皇后と一緒に獲物を捕った事や、袖を水に浸してしまった事から「ひたち=常陸」の地名の由来になった事などが記載されています。常陸国風土記は「古老相伝の旧聞」をまとめたものである事から真偽の程は判りませんが、少なくとも奈良時代には日本武尊の伝説が確立していた事になり興味深いものがあります(「古事記」や「日本書紀」では日本武尊が天皇に即位した事は記載されていな事から別人説もあります)。

常陸国総社宮は奈良時代に創建されたとの由緒を持つ歴史ある神社ですが、客観的な資料はありません。しかし、常陸国の国府と境内が隣接する事から国府の祭祀に深く結びついていた神社である事は疑いのないところで、常陸国は、上記の「常陸国風土記」によると大化元年(645)の大化の改新の直後に立国したとされ、国衙の発掘調査では、最も古い建物跡は7世紀末頃と推定される為、常陸国総社宮もその頃に勧請された可能性があります。当然確証がある訳ではありませんが、当時の国府は政教同一で国の祭祀も立派な業務だった事から何らかな司祭施設は必ず必要だったようで、一般的にはその国の一番格式の高い一宮が祭祀の中心となりますが、常陸国一宮である鹿島神宮は国府から遠く離れていた為、便宜上国府に隣接して総社を設ける例も見られ常陸国総社宮もそうした理由から創建されたと思われます。又、律令制度が確立すると、国司はその国の安寧を図る為、国内(当社の場合は常陸国内)の主要な神社(延喜式内社など)を巡拝する必要性があり、それを全て行う事は大変労力がいる事から、総社にそれら全ての祭神の分霊を勧請させ、社号の通り「総社」、「総宮」となりました。そういう意味では総社が確立したのは平安時代後期以降である事から、常陸国総社宮はその頃に創建したとも考えられます。

平安時代末期頃から朝廷の権威が弱まり、それに伴い国府の機能も滞るようになりましたが、中世以降の領主は常陸国総社宮を庇護する事で、自らの権威を高めたようで、引き続き当地域の中心的な神社であったようです。領主の居館や城、江戸時代の府中藩の陣屋なども、国府跡地に隣接するように設けたのも行政地として当地が優れていた事を窺わせます。神社山門は江戸時代初期の寛永4年(1627)頃の造営で、切妻、茅葺、三間一戸、八脚単層門、内部に安置されている随神像は石岡市指定文化財に指定されています。

茨城県の神社山門
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