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 大宝八幡神社(関東地方最古の八幡神社)

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大宝八幡神社・神社山門:写真

大宝八幡神社(関東地方最古の八幡神社)

大宝八幡神社:概要

大宝八幡神社(茨城県下妻市)は飛鳥時代の大宝元年(701)に常陸国河内郡に配された藤原時忠が八幡神を祭って創建したと伝わる古社です。藤原時忠は藤原鎌足の玄孫とも言われる人物で東国運営の為に常陸国に派兵されたと思われます。裏付けできる資料が乏しく詳細は判りませんが養老3年(719)に藤原不比等の3男である藤原宇合が常陸守として安房、上総及び下総3国の按察使に任命されている事から、当時の常陸国と藤原氏との繋がりが深かった事が窺えます。平安時代後期に奥州で発生した俘囚長である安倍氏の反乱には源義家が平定し凱旋帰国する際、大宝八幡神社を参拝に訪れ祀田を奉納したと伝えられています。鎌倉時代初期に行われた奥州藤原氏征伐の後、源頼朝は大宝八幡神社の摂社である若宮八幡宮を勧請し下妻荘の下司である下妻四郎広幹に命じて大宝八幡神社と若宮八幡宮の両社の奉斎を命じたそうです。この頃から神仏習合し、弘幹が常陸国三宮である吉田神社の別当寺院である神宮寺(現在の水戸薬王院)から大宝八幡神社の別当職を兼任させたとも、久仁親王が出家して賢了院を名乗り別当職になったとも言われています(鎌倉時代末期には水戸薬王院系統と賢了院系統の別当職争いが発生している事から混乱が生じたと思われます)。その後は賢了院を中心として大宝八幡神社の境内には合計八寺院が軒を連ね、観音堂や阿弥陀堂、護摩堂、虚空蔵堂、鐘楼などが建立され仏教色の強い神社となりました。庇護者だった下妻氏は境内に大宝城を築き長く当地を支配しましたが、南北朝の動乱時に南朝に属した為、北朝方に攻められ大宝城は落城し下妻氏も没落しています。

室町時代に入ると下妻城(多賀谷城)の城主多賀谷氏が台頭し大宝八幡神社を篤く信仰するようになり、3代家植は太刀一振(名:青雲、銘:信房)、6代政経は鎧(一領)と太刀(2振・名:雉子尾・名:三刃切)、7代重経は佩刀の太刀、流鏑馬神事を奉納し、社殿、堂宇の再建が行われています(本殿は国指定重要文化財)。又、茨城県指定重要文化財に指定されている梵鐘は嘉慶元年(1387)に鋳造され平林寺から慶雲寺、星智寺が所有していましたが、天正8年(1580)に重経が版図を広げた際に戦利品として持ち帰り大宝八幡神社に奉納したと伝えられています。多賀谷氏は長く結城氏に従っていましたが、戦国時代末期に佐竹氏に従うようになり、当時の当主佐竹義重の4男宣家を養子として迎え、慶長5年(1600)の関が原の合戦では佐竹氏と共に積極的に戦に参加しなかった事で改易となっています(宣家は兄である佐竹義宣が久保田藩(本城:久保田城)の藩主になると、檜山城(霧山城)に配され、その後佐竹一族である岩城家亀田藩2万石を継いでいます)。江戸時代に入ると、源氏の棟梁を自称する徳川家が庇護を受け社領115石を安堵されています。

神社山門は近代的な工法で建築されていますが、神仏分離後には珍しい仁王像が安置されています。

大宝八幡神社:動画

茨城県の神社山門
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