※このサイトは境内に山門(門扉)がある神社の写真や、私論、感想を掲載しています。

 神社山門: 榊山稲荷神社

  全国の観光と歴史的建築物(ホーム)全国の神社山門岩手県>榊山稲荷神社(盛岡市北山)

榊山稲荷神社

榊山稲荷神社(岩手県盛岡市北山)
【 概 要 】−榊山稲荷神社の創建は慶長2年(1597)、盛岡城が築城された際、城の鎮守社の1つとして勧請されたのが始まりとされます。歴代南部家から崇敬庇護されていましたが、明治時代になり盛岡城が廃城になると、庇護者だった南部家も当地から離れた為に衰微しました。明治30年になり現在地(方長老の屋敷跡)に遷座再興されています。

【 場 所 】−岩手県盛岡市北山2丁目

【 構 造 】−切妻、銅板葺、妻入、一間一戸

【 備 考 】−榊山稲荷神社の境内は方長老の屋敷跡で庭園はその名残とされます。方長老は筑前国宗像郡出身で江戸時代前期の臨済宗の僧である規伯玄方の別称です。方長老は師で以酊庵の庵主である景轍玄蘇の跡を継ぎ対馬藩の対朝鮮国外交の任を担い、仁和7年(1621)と寛永6年(1629)には朝鮮国に渡航しています。

豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、対馬の領主である宋家は日本と朝鮮との板挟みとなり、それぞれを取り持つ立場から国書の偽造、改竄を繰り替えし、どうにか両国の国交が正常化に向かいましたが、家老である柳川調興が幕府に対して密告した事で問題視されました。

寛永12年(1635)、3代将軍徳川家光は多くの旗本を登城させ議論させた結果、対馬藩主である宗義成が無罪になった一方で、柳川調興は弘前藩に流罪、方長老も国書改竄に関わったとして盛岡藩に配流されました。盛岡藩では方長老を犯罪者ではなく知識人、文化人として扱ったようで、藩の産業である南部鉄器や黄精飴の発展に尽力し、牛乳を奨励したとされます。万治元年(1658)に罪が許され京都南禅寺に遷り盛岡の地を離れています。

榊山稲荷神社:動画

盛岡城:動画

岩手県の神社山門
日高神社榊山稲荷神社桜山神社
 ※ このサイトは資料やパンフレット、案内板などを参考にしていますが、私的な見解や推察などが多分に含まれている為、最終的な確認、決断は個人で行ってください。又、文章や写真の利用は御遠慮ください。