高崎城: 東門

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高崎城−東門
【 高崎城(東門):概要 】 高崎城は中世の和田城を、慶長2年(1597)に徳川家康の命により徳川四天王に数えられた井伊直政が大改修した後に改名した城です。直政は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで大功を挙げ、大坂城を押さえる要衝である佐和山城(滋賀県彦根市)に移封、その後は高崎城の城主は有力譜代大名が明治維新まで歴任し、江戸時代前期に高崎藩主となった安藤氏の時代に近世城郭へ整備されています。東門は三の丸の城下町側にあたる東方に位置し、単層門で潜戸が付いている事から通用門として利用されていたと考えられています。建築年は不詳ですが、寛政10年(1798)と天保14年(1843)に高崎城が火災で大きな被害を受けている事から東門も類焼し再建されたと推定されています。明治4年(1871)の廃藩置県により高崎藩が廃藩となり、明治6年(1873)に廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、又は払い下げとなり、東門は下小鳥町の梅山家が買い取り表門として移築されました。その後、梅山家から高崎市に寄贈された事を受けて昭和55年(1980)に高崎城の城跡である現在地に移築保存される事になりました。

高崎城東門は入母屋、本瓦葺き、単層、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、向かって左端が大戸、中央が潜戸、右端が東門を出入りする人物改めや荷物改めを行ったと思われる藩士の詰所となる番所で武者窓付。

【 場 所 】 東門−群馬県高崎市高松町

【 備 考 】 昭和55年(1980)3月11日:高崎市指定重要文化財

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