秋田県: 城郭建築

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 秋田県:城郭建築一覧
市町村 城名 名称 現在 概要 備考
秋田市 久保田城 御物頭御番所 御物頭御番所 木造2階、切妻、こけら葺 市指定
秋田市 久保田城 裏門 麟勝院 移築城門:上部破棄、下部切詰
能代市 檜山城 城門 浄明寺 伝:移築城門※年代矛盾 県指定
羽後町 西馬音内城 城門 西蔵寺 伝:移築城門、16世紀中、切妻 町指定
湯沢市 岩崎陣屋 御殿玄関 岩崎八幡神社 玄関部を拝殿向拝として移築
湯沢市 南家御館 館門 中央公園 佐竹南家御館の門を移築
仙北市 角館城 城門 天寧寺 伝:移築城門※年代的に矛盾 市指定
鹿角市 当麻館 搦手門 仁叟寺 移築城門、切妻、金属板葺
鹿角市 花輪要害 代官所門 専正寺 移築城門、切妻、桟瓦葺
大館市 大館城 城門 民家 移築城門、切妻、金属板葺
 久保田城−城郭建築概要
久保田城久保田城は慶長5年(1600)の関が原の戦いで東西中立を貫いた佐竹義宣が軍令違反(義宣には仙道口に進軍するように命じられたが、無断で本城である水戸城に引き返した。一方、徳川秀忠の上田城攻めに200〜300旗を派兵し曖昧な態度をとっています。)の罰により慶長7年(1602)常陸国54万石から出羽6郡21万石に移封となり、慶長8年(1603)から築城を開始と慶長9年(1604)に完成した平山城です。秋田領に入封すると中世当地を支配した秋田氏の本城である湊城に入りましたが、土崎湊に近接し平城で佐竹氏にとっては手狭だった為、新たな城郭が計画されました。幾つか候補地があった中、領地の中央に位置し、土崎湊や大動脈である雄物川に近く、長沼や仁別川(旭川)など天然の要害となりうる久保田(窪田)にある神明山(標高約40m)に定めました。久保田城は本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸で構成され、本丸には藩主居館と藩庁が設けられ、二の丸には勘定所、馬場、三の丸には重臣屋敷が配されていました。久保田城は石高に対して広大な城域を有している一方で天守閣(本丸の城下を見下ろす位置に御出書院[2層又は平屋]を設けて天守閣の代用し、時代の変遷で上下しますが概ね8基の櫓が設けられました。)や本格的な石垣が無い城郭としても知られ、一般的な解釈としては幕府に遠慮したとされ、功を奏してか明治維新まで改易や減封が無く佐竹氏が久保田藩主を歴任しています。久保田藩は戊辰戦争の際、逸早く奥羽越列藩同盟を脱退し新政府軍に参加した為、廃城後も城郭が維持されてきましたが明治13年(1880)の火災により多くの建物が焼失し、現在城内には御物頭御番所のみが唯一の遺構となっています。又、移築城門としては佐竹氏と縁の深い麟勝院の山門として本丸裏門の移築されています(元々櫓門でしたが上層部が撤去され寺院の山門として改変されているようです)。日本100名城
 檜山城−城郭建築概要
檜山城檜山城は明応4年(1495)に安東忠季によって築かれたとされる中世の山城です。安東氏は蝦夷の棟梁として前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の後裔とされ、古くは津軽十三湖(青森県五所川原市)を中心に津軽地方を掌握し「日之本将軍」を自称して北陸地方までの日本海沿岸に大きな影響力がありました。享徳3年(1454)に南部家の津軽侵攻により衰微し、一族の一部が既に秋田に移住を果たしていた湊安東氏を頼り男鹿半島に移り住みその後、檜山郡に進出し現在の秋田県北部を制圧しました。檜山城は標高147mの檜山の山頂に築かれ東西1500m、南北900mという広大な城郭で本丸を中心に二の丸、三の丸の他、大小数多くの郭が存在し随所に空堀や土塁などの防衛施設が設けられました。天正7年(1579)、安東愛季が湊安東氏を下し一族を統一すると実石15万石、出羽国北部の最大の大名となり隣接する大浦氏や南部氏、最上氏などと覇を競う存在に成長します。天正17年(1589)、湊安東氏の反乱によって一時窮地に立たされますが、安東実季が乱を鎮めると本城を湊城に移し領内の整備に尽力しています。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは東軍に与するものの長年対立していた最上氏の嘘言により事実上厳封となり常陸宍戸に移されています。替わって常陸から佐竹氏が入封し久保田藩を立藩、檜山城には一族である小場義成、後に多賀谷宣家が配され、近代的な城郭に大改修されますが、慶長20年(1615)一国一城令により元和6年(1620)に廃城となり、麓に多賀谷氏の陣屋構えの居館が設けられました。建物の遺構として城門の1つが檜山城の麓に境内を構え安東氏とも縁の深い浄明寺の山門に移築されたと伝えられています。ただし、山門の建築年と檜山城の廃城年と食い違う事から関係が無いとも、多賀谷氏の居館の門とも言われています。
 西馬音内城−城郭建築概要
西馬音内城西馬音内城は建治3年(1277)、小野寺道直によって築かれた中世の山城です。小野寺氏は地頭として雄勝郡に配されると稲庭城を居城として平鹿郡、雄勝郡を制圧し、最盛期には山本郡(現在の仙北郡)、村山郡(現在の最上郡)まで進出し出羽国の有力国人領主として成長しました。西馬音内城は雄勝郡と由利郡を結ぶ街道沿いにあり、郡境に隣接していた事で軍事的な拠点として重要視され西馬音内小野寺家が8代(道直→不詳→道兼→道位→道鄰→不詳→昵道→茂道)に渡り城主を歴任しました。ただし、戦国時代に入ると度々独自の行動をとるようになり西馬音内小野寺家が最上家に与した事で最上家の雄勝郡進出の原因となりました。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは宗家に従い西軍に与し、最上家と戦い優勢でしたが、本戦である関が原で西軍が敗れると最上家が攻勢に転じ、当時の西馬音内城の城主小野寺茂道は城に火をかけ庄内に逃れ後裔は久保田藩佐竹家に仕えたとされます。その後、西馬音内城は廃城となり唯一残された遺構として城門の1つが西馬音内小野寺家の菩提寺である西蔵寺の山門として移築されています。
 角館城−城郭建築概要
角館城角館城は応永31年(1424)戸沢家盛によって築かれたのが始まりとされます。戸沢氏は角館城を中心に勢力を広げ戦後時代には北浦地方一帯を制圧し、同じく平鹿郡、雄勝郡を制圧した小野寺氏や日本海側で大きな勢力を築いた安東氏と対立関係となり度々合戦が行われます。天正18年(1590)の小田原役に参陣した事で豊臣政権から大名として認められています。慶長5年(1590)の関が原の戦いでは東軍に与したものの最上家の嘘言により事実上の減封となり常陸国松岡に移されています。替わって佐竹氏が秋田領に入封し久保田藩を立藩、角館城は盛岡藩がある陸奥国と結ぶ街道沿いにあり、藩境にも近かった事から一族である芦名義広を配しています。義広は角館城を近代的な城郭に大改修しますが慶長20年(1615)一国一城令により事実上角館城は廃城となり麓に陣屋構えの居館を設けて新たなる城下町の整備を行っています。しかし、名門だった芦名氏も3代で断絶し、同じく佐竹氏の一門である佐竹北家が角館所預として赴任しています。唯一の遺構とされる城門が芦名氏の菩提寺である天寧寺に移築されたという伝承が長く信じられてきましたが、檜山城と同様に山門の建築年代と角館城の廃城年が異なる事から関係が薄いとも言われています。
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