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 神社山門: 三夜沢赤城神社

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三夜沢赤城神社

三夜沢赤城神社(群馬県前橋市)
【 概 要 】−赤城神社の創建は不詳ですが、古くから格式の高い神社で、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社と記載され貫前神社に次ぐ上野国二宮に格付けられました。ただし、赤城神社の本社は三夜沢・大洞・二宮の三社がそれぞれ自称し現在も決着は着いていません。三夜沢に何時頃から祭られているのかは不詳ですが室町時代には既に存在に東社と西社の2社がありました。その後、西社が東社の境内に遷座し両方の本殿が並行して祭られる形式となっています。基本的には赤城神社全体の中社、又は二宮赤城神社の奥社、奥之院のような存在だった思われますが、二宮赤城神社が衰退した事で本社的な立場になったようです。

【 場 所 】−群馬県前橋市三夜沢町

【 構 造 】−切妻、銅板葺、一間一戸、四脚門

【 備 考 】−三夜沢赤城神社の祭神である豊城入彦命は日本書紀によると崇神天皇(第10代天皇)と河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛との間に生まれた皇子で東国の治定にあたり、上毛野君や下毛野君の始祖とされます。資料的価値が疑問視されている「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると上毛野国造は「崇神朝の皇子・豊城入彦命の孫の彦狭嶋命が、はじめて東方の十二国を治め平らげて、国造に封ぜられた。」とあります。日本書紀の景行天皇55年の条には「五十五年春二月戊子朔壬辰、以?狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。」の一文があり、彦狭島王が東山道15国の都督に就任したものの春日穴咋村で病気に伏して死去、多くの民が悲しみの余り遺体を持ち去り上野国に埋葬されたとされます。続く景行天皇56年の条には子供である御諸別王の父親の跡を継ぎ東国で善政を行い、蝦夷が反乱すると兵を差し向け首帥である足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊等が降参し、子孫は東国を支配したと記しています。

ここで問題なのは上毛野君が中央から派遣された豪族なのか、元々毛野地方を支配した在地豪族なのか不明な事です。赤城神社は本来、赤城山を御神体とする素朴な自然崇拝が信仰の前身で、三夜沢赤城神社の境内背後の「櫃石」はその祭祀場だった形跡とされます。それが、中央から派遣された豪族であればかなり強引に赤城神から上毛野君の祖神である豊城入彦命に信仰の対象を変更した事になります。一方、毛野地方には中央に匹敵する規模と数の古墳集中地帯でもあり、独自の勢力を築いていたとも考えられます。そうなると、当地の象徴的な存在である赤城山と祖神と一体として祭る事で古墳の規模だけでなく信仰的にも権威を誇示したのかも知れません。

何れにしても6世紀前半頃に上毛野君小熊が武蔵国造の乱に強く関与した可能性が高く、ヤマト王権が乱を平定したと同時に古墳が小型化した事から上毛野君の勢力が大きく後退しヤマト王権に組み込まれたと推定されています。赤城神社も上毛野君の強力な権力を背景し事実上の上野国一宮だったと思われますが、上毛野君が没落し、ヤマト王権の物部氏に従った物部性磯部氏が台頭すると磯部氏の氏神を祭った貫前神社が上野国一宮になったと思われます。

群馬県の神社山門
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榛名神社
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