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 神社山門: 辛科神社

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辛科神社

辛科神社(群馬県高崎市吉井町)
【 概 要 】−辛科神社は大宝年間に新羅系渡来人によって創建された古社です。古くから多胡郡の総鎮守的な存在として信仰の中心となった為、歴代領主や為政者から崇敬庇護され社運も隆盛しました。江戸時代に入ると、3代将軍徳川家光により社領の寄進があり、領主となった倉橋久盛や溝口家から庇護され社殿の造営などが行われました。辛科神社境内一帯が高崎市指定史跡に指定されています。

【 場 所 】−群馬県高崎市吉井町神保

【 構 造 】−切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門

【 備 考 】−辛科神社が境内を構える地は古代、「甘良郡」に属していたとされ、日本三古碑、上野三碑に数えられ国の特別史跡に指定されている「多胡碑」には「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘 良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和同四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左大臣正二位石上尊右大臣正二位藤原尊」の一文が刻まれ、和銅4年(711)に片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から300戸を分けて多胡郡が成立した事が判ります。多胡碑の碑文に対応する事績が「続日本紀」にも記載されていて、和銅4年(711)に上野国甘良郡の織裳郷、韓級郷、矢田郷、大家郷、緑野郡の武美郷・片岡郡の山等郷の6郷を割いて、多胡郡が成立した事が判ります。「続日本紀」に記載された上野国甘良郡韓級郷の「韓級」が転じて「辛科」の地名が成ったとされ、「甘良」は朝鮮半島南部にあった「加羅」、同じく「韓」も「から」を音訳した漢字と解釈される事から朝鮮半島南部出身の一族(渡来人)が住んでいた地域だったと推定され、多胡郡の「胡」の字は、中国語で異民族の意味がある事も渡来人が多かった事が窺えます。辛科神社は多胡郡総鎮守とされる事から、朝鮮系の渡来人によって創建され、その後も心の拠り所になったと思われます。

又、「続日本紀」の太平神護2年(766)の条には「在上野国新羅人子午足等一百九十三人賜姓吉井連」の一文があり、上野国(現在の群馬県)に新羅人が少なくと193人が存在していた事が明確で、「吉井連里」と記した瓦が旧多胡郡周辺から多く出土している事から当地が新羅出身の渡来人の中心地だったと推定されています。さらに、辛科神社の祭神である速須佐之男命は 五十猛命、大屋津姫、抓津姫の三神を従え、 新羅國に天隆り曾尸茂梨に一時住んだとの異説もあり、辛科神社と新羅の関係が垣間見えます。

群馬県の神社山門
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