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 神社山門: 猿投神社

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猿投神社

猿投神社(愛知県豊田市)
【 概 要 】−猿投神社は仲哀天皇元年に創建された古社です。格式が高く平安時代後期に記された延喜式神名帳には式内社として記載され三河国三宮の格式を得ていました。中世に入ると長く当地を支配した中条氏から崇敬庇護され社運も隆盛し、江戸時代に入ると幕府から庇護され社領776石が安堵されました。社宝が多く太刀(銘行安)や黒漆太刀、古文孝経、本朝文粋、樫鳥糸威鎧大釉付、猿投神社漢籍は国指定重要文化財に指定されています。

【 場 所 】−愛知県豊田市猿投町大城

【 構 造 】−切妻、銅板葺、一間一戸、四脚門

【 備 考 】−猿投神社の現在の祭神は大碓命ですが、大碓命を祭神と明確にしたのは江戸時代以降とされ、それ以前は様々な神が祭られ必ずしも固定化されていませんでした。猿投神社は元々、猿投山を御神体とする素朴な自然崇拝が発展した神社と推定され、中腹から山頂にかけては巨石、怪石が点在し神々が降臨する磐座として見立てられていたようです。そう意味では祭神は猿投神であり、それ以外は有り得ないのですが、時代が下がると猿投神が別の神々の名が当てられ結局良く判らなくなったようです。それが江戸時代に入ると一転して大碓命が主祭神と祭られるようになる訳ですが、明確な根拠があった訳ではなかったようです。

大碓命は奈良時代に成立した歴史書である「日本書紀」によると、景行天皇の皇子、小碓尊(日本武尊)と双子の関係で、景行天皇4年2月に天皇が美濃国造である神骨の娘である兄遠子、弟遠子の姉妹が容姿端麗であると聞き及び、妃とする為に大碓命を美濃国に遣わせました。しかし、大碓命は彼女らと密通を行い報告を怠った為、天皇は恨みました。景行天皇40年7月、天皇が東国の神や蝦夷が反乱し人民が困っている為、東国平定を誰に任せたらよいかと家臣に問うと、日本武尊は自分は西国を平定したばかりなので大碓命に任せてはどうかと上申、すると大碓皇子が草の中に逃げ隠れたので使者を遣わし呼び寄せ、「お前が望まないなら、行く必要はないが、まだ敵を見てもいないのに、おじけづくとは情けない。」と仰って美濃国に封じ、身毛津君・守君の祖になりました。とあります。

同じく、奈良時代に成立した「古事記」によると、天皇が美濃国造の祖先である大根王の娘である兄比売、弟比売の姉妹が容姿端麗であると聞き及び、妃とする為に大碓命を美濃国に遣わせました。しかし、大碓命は姉妹が余りにも美しかった事から自らの妃とし天皇には別の女性を献上、天皇は別人である事を見抜いていた為、妃にする事はありませんでした。ある時、大碓命が朝夕の食事を採らなかった事から、天皇は小碓命に向かって「何故、お前の兄は朝夕の食事にやって来ないのか?お前が説得しなさい。」と仰りました。しかし、5日経っても大碓命が参上しないので、天皇は小碓命に向かって「まだ参上しないのは、お前がまだ説得していないのではないのか」と、仰ると「丁寧に対応した。」と答えたので、「ではどの様に対応したのか。」と、仰ると、「朝、大碓命が便所に入った時、待ち伏せして、取り押さえ、掴み、潰し、手足を引きちぎり、筵にくるんで投げ捨てた。」と答えました。とあります。

「記紀」では大碓命の事を天皇の命に従わない無能な皇子と評しており、「日本書紀」では美濃国に流され、「古事記」では宮中で小碓尊(日本武尊)に暗殺されたような表記となっている事から猿投神社が境内を構える「三河国」とは全く関係ないようです。一方、猿投神社に伝わる、宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人両名の調査によって編纂されたとされる「縁起書」によると大碓命は景行天皇52年(122)、猿投山の山中で蛇の毒の為に薨じ(享年42歳)、山上に斂葬(死者を棺に納めて埋葬すること)したとあります。確かに、猿投山の山中に鎮座し、猿投神社の奥宮の一つ西宮の後方には大碓命の墳墓(古墳)と思われる土盛(円墳:直径10m程)があり、明治8年(1875)に行われた教部省の実地調査の結果、明治16年(1883)に大碓命の墓として治定されています。基本的に猿投神社に伝わる縁起書や伝承を尊重した形と思われますが、そもそも、奈良時代に成立したとされる縁起書が明確で確証あるものであれば、近世以前も大碓命が主祭神として祭られているはずですが、多種多様な神々が祭られていた事実を鑑みると少なくとも中世には忘れ去られていた存在だった事が窺えます。さらに、子供である身毛津君は美濃国北中部を支配した牟義都国造で本拠地は美濃国武儀郡(現在の岐阜県関市・美濃市)である事から、幾ら大碓命が猿投山で薨じたとしても、山中に小規模の墳墓を設けたとはかなり不自然な印象を受けます(個人的には岐阜県大垣市昼飯町大塚に築造されている昼飯大塚古墳(築造年4世紀後半、全長約153m、前方後円墳)の方が相応しい印象を受けます)。一方、後裔の身毛広(牟宜都比呂)が壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)方として活躍したはずなのに、牟義都国造の本拠地である武儀郡には延喜式神名帳に記載された式内社は存在せず、天武天皇の命により編纂された記紀では祖である大碓命を低く評価しています。

個人的な考えとしては、大碓命の題材となった某皇子が宮中内の男女問題により猿投山に幽閉された後に処刑、埋葬されたものが「大碓命の墓」の正体で、これだと山中に小規模の墳墓だった理由となり、猿投神社西宮は処刑された某皇子の祟りを恐れて創建された神社だった思われます。大碓命の後裔は牟義都国造になっている事から日本書紀では美濃に流されたと事にしていますが、実際には古事記で記されているように処刑され、その地が猿投山だったとすると、「遠島(えんとう:島流し流罪)」が「猿投」に転じ、「さなげ」と呼ばれるようになったのかも知れません。一方、猿投神社東宮は、古代から信仰の対象となった猿投山の神である猿投神が祭られ、その後、参拝する便宜を図る為に麓に東西合わせた当社が創建されたと思われます。猿投神社に奉納される「左鎌」は正に向かって左側に位置する西宮に封じられている某皇子の祟りを鎮める呪詛のような印象を受けました。

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