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 神社山門: 真清田神社

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真清田神社

真清田神社(愛知県一宮市)
【 概 要 】−真清田神社は神武天皇33年に創建した古社で、延喜式神名帳では最も格式の高い名神大社として記載され為、尾張国一宮として国事の祭祀を司る格式を得ています。江戸時代に入ると尾張藩の藩主尾張徳川家から崇敬庇護され、社領336石が安堵され、藩費により社殿が造営されました。現在の社殿は昭和に入り再建されたもので国登録有形文化財に登録されています。

【 場 所 】−愛知県一宮市真清田1丁目

【 構 造 】−入母屋、銅板葺、三間三戸、八脚単層門

【 備 考 】−真清田神社は圧倒的な知名度と信仰の篤さを兼ね備えた熱田神宮を差し退いて尾張国一宮だったという大きな謎があり、現在、主祭神として祭られている天火明命も明治時代に入り定められたものとされ、それ以前の祭神は良く判っていないとされます。創建年についても、室町時代末期から江戸時代に成立した由緒や古文書を頼りにしている為、一頃に真清田神社が成立したのかも判っていない状況ですが、平安時代に成立した所謂「六国史」には神階を授かった事が列記され、延喜式神名帳には名神大社、永万元年(1165)に記録された「神祇官諸社年貢注文」には「尾張国一宮 八丈五疋」と記載されている事から少なくとも平安時代には存在していた古社である事は間違いありません。結局、熱田神宮を上回る為には、古代の尾張国を制した尾張氏が祖神を祭り奉斎したのが真清田神社であろうとの推測の下、尾張氏の祖である天火明命が祭神の第一候補になったのではないかと思います。確かに、真清田神社の境内周辺には特徴ある山や目立った巨石、湧き水、滝などがある訳ではないので、古代人の素朴な自然崇拝や地主神を源とする神社ではなく、支配者の祖神を祭る奉斎施設と考える方が自然かも知れません。

しかし、実際は熱田神宮の大宮司職を永久2年(1114)に尾張員職が霊夢の御告げにより外孫の藤原季範に譲るまでは、歴代尾張氏が奉斎した事は間違い無く、三種の神器の一つである天叢雲剣(草薙剣)が御神体であるなど、やはり尾張国一宮は熱田神宮の方が相応しかった印象を受けます。さらに、寛平2年(890)に成立した「尾張国熱田大神宮縁起」によると火明命11代の孫である尾張国造乎止与命の子供が建稲種命とし、建稲種命が尾張氏の本当の祖である事から熱田神宮で祭られている熱田明神は尾張氏神である旨が記されてます。逆に、真清田神社の祭神が尾張氏の祖神である天火明命であれば、そもそも明治まで祭神が不明瞭なのは不自然で、尾張国一宮になった理由や、祭神が不明だったのも何らかな理由があったとも考えられます。まず、室町時代後期に成立した「真清田神社古縁起」などによると祭神は国常立尊、16世紀頃に成立した「大日本国一宮記」などによると祭神は眞清田大明神(大己貴命)とあります。国常立尊、及び大己貴命が何故祭られていたのかは不詳、又、尾張氏との関係も不詳です。

個人的には熱田神宮こそが尾張国造である尾張氏が祖神を祭る為に創建した神社で、平安時代後期まで尾張国一宮的な役割を持っていたものの、永久2年(1114)に大宮司職が藤原家に移った前後にその立場から降格した印象を受けます。同じ様に上野国(現在の栃木県)でも当初は上野国造の祖神が祭られている赤城神社が一宮的な立場だったと思われますが、国造家が衰微すると、その後に台頭した磯部氏の氏神が祭られている貫前神社が一宮となっている事から一宮制度を確立した当時にその国の支配層が一番篤く奉斎していた神社が一宮として選定されたのではないかと思います。真清田神社は当時の国司級の人物が熱田神宮を避けた結果一宮として奉斎したと思われますが、元々の祭神が国常立尊や大己貴命が想定される為、国司の氏神というよりも、地元神が無理やり転化されたような印象を受けます。日本神社100選

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