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 能登生国玉比古神社(気多本宮)

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能登生国玉比古神社

能登生国玉比古神社(石川県七尾市:気多本宮)
能登生国玉比古神社(石川県七尾市)は社伝によると、大己貴命が出雲国(島根県)から因幡国気多崎(鳥取県鳥取市白兎)に至り八上比唐ニ婚姻し、その後、鹿と亀の霊獣に乗って能登国の府中の浦(石川県七尾市府中)にたどり着きました。その際、大己貴命は素戔嗚尊と稲田姫の化身である老夫婦に出迎えられ、様々な料理などのもてなしを受けて、この地に留まり住民を守って欲しいと懇願されました。当時の能登国には大鷲が巣食い大きな被害を与えていた為、大己貴命がそれを退治すると住民達は皆感謝し、孝元天皇の時代に社を設けて祭祀するようになりました。崇神天皇の御代、能登国鹿島嶋路の湖水(現在の金丸の湖水)に毒蛇が住み着き住民達に害を及ぼすようになると、能登生国玉比古神社に祈願し見事退治する事が出来ました。住民達は神意に感謝し羽咋郡竹津浦に分霊を勧請し現在の気多大社が創建、能登生国玉比古神社は気多本宮とも呼ばれるようになっています。平安時代に成立した延喜式神名帳に記載されている能登生国玉比古神社の論社で、能登国総鎮守として広く信仰され、格式の高さが窺えます。中世は能登国守護の畠山氏に庇護されていましたが、天正年間(1573〜1593年)に上杉謙信(春日山城の城主)の能登侵攻の兵火により畠山氏の居城である七尾城(松尾城)は落城、畠山氏縁の社寺も悉く焼き討ちとなり能登生国玉比古神社も焼失しています。天正9年(1581)、織田信長(安土城の城主)により能登国が掌握されると、家臣である前田利家が七尾城に入り、領内の整備が行われ能登生国玉比古神社も再興が図られています。当時は所口の古城山に鎮座していましたが、天正17年(1589)に利家は七尾城を廃城にして能登生国玉比古神社の境内地に新たな七尾城(小丸山城)を築城する事となり、現在地に遷座し社殿が造営されています。気多大社の例祭である平国祭(毎年3月21日・別称:おいで祭)には能登生国玉比古神社から気多大社に分霊が勧請された故事に因み、当社から気多大社まで約300キロの行程を5泊6日で祭神が渡御する神事が行われます。古くから神仏習合し、別当寺院として木閣山所口寺が祭祀を司り、気多本宮地蔵大権現などと呼ばれていましたが明治時代の神仏分離令により廃寺となり旧社号に復して神社として独立しています。

神社山門は入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、木鼻には象と獅子の彫刻が施されています。

石川県の神社山門
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気多大社
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