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 神社山門: 賀多神社

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賀多神社

賀多神社(三重県鳥羽市鳥羽)
【 概 要 】−賀多神社は神亀元年に創建された古社で、古くから当地の産土神として篤く信仰されてきました。歴代領主からも社領の寄進や社殿の造営が幾度となく行われ社運も隆盛しました。現在では珍しい組み立て式の神楽殿を所有し三重県指定文化財に指定されています。

【 場 所 】−三重県鳥羽市鳥羽2丁目

【 構 造 】−切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門

【 備 考 】−賀多神社の御神木から造船されたという日本丸はと豊臣秀吉による朝鮮出兵の「文禄の役」の際、天正20年(1593)に秀吉の命により九鬼嘉隆が建造した軍艦(安宅船)です。当初は「鬼宿丸」と名付けられていましたが、豊臣軍の拠点となった名護屋城(佐賀県唐津市呼子)に集まった軍艦の中で最もと秀逸だった事から秀吉から「日本丸」と命名されました。朝鮮との戦いが長引くと、輸送船が度々襲撃される事態が発生し、秀吉は脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明に朝鮮水軍の掃討を命じました。本来、3大名の連携が必須でしたが脇坂安治の水軍が単独で行動した事で閑山島海戦が開かれ敗北しています。その知らせを知った九鬼嘉隆、加藤嘉明も急いで出港し安骨浦海戦が開かれました。嘉隆が乗り込んだ日本丸は旗艦だった事もあり集中砲火を浴び、甲板に設けらた櫓も形を留めない程に大破しましたが、沈没には至らず、主要な艦船の損失が無かった事から秀吉からも賞されています。日本丸は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでも軍用されましたが、江戸時代に入ると縮小、改造が行われ、江戸時代末期まで商船として利用されました。

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