羽州街道の川口宿と盛岡城(岩手県盛岡市)を結ぶ街道で秋田側からは「十二所街道」や「南部街道」、岩手側からは「鹿角街道」などと呼ばれました。古代から開削されていたとされ元慶年間(877〜885年)に出羽の夷俘が悪政から蜂起し、元慶2年(878)には朝廷の出先機関である秋田城(秋田県秋田市)が占拠される、所謂「元慶の乱」が発生、その乱を鎮める為、朝廷から派遣された鎮守将軍小野春風、陸奥権介坂上好蔭等が陸奥国から鹿角街道(南部街道)を利用して出羽国に侵攻し乱を平定しています。戦国時代に入ると鹿角地方が秋田氏(安東氏)、津軽氏、南部氏の領域に接していた為、絶えず争奪線が繰り広げられ街道も軍用として利用されています。江戸時代に入り、南部氏の本拠を三戸城から盛岡城に移すと、尾去沢鉱山で産出された鉱物を盛岡城下に運ぶ搬入路が重要視され本格的に整備されました。特に元禄8年(1695)に銅鉱が発見されると尾去沢鉱山は日本有数の銅山として発展した為、鹿角街道(南部街道)の重要性が高まりました。主な宿場町は川口宿(羽州街道分岐)、扇田宿、十二所宿(十二所所預館、口留番所)、沢尻宿、松山宿(口留番所)、毛馬内宿(三戸へと結ぶ来満街道へ分岐、要害屋敷)、神田宿、花輪宿(要害屋敷、代官所)、大里宿、湯瀬宿、田山宿、新谷町宿、寺田宿、田頭宿、滝沢宿(秋田街道へ分岐)、盛岡城下と結んでいます。街道沿いに久保田藩(本城:久保田城)と盛岡藩の藩境があり、秋田側の十二所宿には久保田藩の口留番所、岩手側の松山宿には盛岡藩の口留番所がそれぞれ設置され、久保田藩では十二所所預として重臣である茂木氏が配され陣屋構えの館が設けられました。対する盛岡藩では花輪と毛馬内に同じく陣屋構えの要害屋敷を設け久保田藩の侵入と尾去沢鉱山の守備を担いました。戊辰戦争の際は逸早く奥羽越列藩同盟を脱退し新政府軍に転じた久保田藩を粛清する為、盛岡藩の主力は鹿角街道(南部街道)を北上して久保田藩領に侵攻し十二所館を攻略し扇田宿の激戦を経て大館城を落城させる奮戦を見せています。その後時勢が転じると敗退を重ね沢尻宿で盛岡藩は降伏しています。
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