古くから難所として知られ、名称である「蓑ケ坂」の由来には次ぎのような伝説が伝わっています。この峠道の頂上には雨の日になると決まって蓑と笠が置かれ、話を知らない人が誤って身に着けると神隠しにあうと云われました。その噂は盛岡城下にも広がった為、南部家の家臣の1人玉山昇が事の真相を探る為、武装して単身峠道を探りながら登っていくと頂上付近になり世にも恐ろしい姿をした妖怪が現れ昇に襲いかかりました。何とか撃退したものの家宝の槍を奪われ、棲家と思われる麓の沼に逃げられた為、昇は五戸代官所に助けを求め、再度身支度を整え数人の助っ人と共に、妖怪の逃げ込んだ沼に向かいました。思案の末、兎を餌に妖怪を引き上げるように策を練り実行すると、見事成功し、巨大化した大百足を退治する事が出来ました。しかし、昇の実家では不幸が続き大百足の祟りとして御蓮神社(祟りで死んだ昇の姪の名前)を創建し、大百足の紋を門に立て魔よけにしたと伝えられています。
寛政11年(1799)には渋江長伯による「東遊奇勝」で享和2年(1802)には作者不明の「東案内記」で蓑ケ坂の事が記載され、嘉永5年(1852)には吉田松陰も東北遊学の際、この峠道を利用しています。又、明治9年(1876)と明治14年(1881)の明治天皇の東北行幸の際は急峻の為、馬車から降り馬で峠道を登った事から駕籠立場跡として史跡となっています。
「駕籠立場の一里塚」は案内板によると「慶長9年(1604)春、幕府は大久保長安に命じ、江戸日本橋を元標とし、東海道、東山道(江戸より三戸などを経て津軽外ヶ浜に至る奥州街道のこと)に一里ごとに、一里塚を築造させた。この一里塚もこの時の築造とおもわれる。この街道は、永年にわたり勾配を緩くするため削られて、両一里塚とも道路より約6m近く高く位置している。」とあります。
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