羽州街道の六郷宿(秋田県美郷町)と盛岡城下(岩手県盛岡市)を結ぶ街道で、「雫石街道」や「盛岡街道」、「生保内街道」、「角館街道」、「秋田街道」などと呼ばれました。参勤交代では利用されませんでしたが、日本海の海産物などの物資を盛岡城下に搬入する業者や幕府の巡見使、公儀御馬買衆などが利用しました。国見峠は出羽国と陸奥国の国境に位置し、江戸時代には久保田藩(本城:久保田城)と盛岡藩の藩境になり、秋田側の生保内宿(秋田県仙北市田沢湖町)には久保田藩の口留番所、岩手側の橋場宿(岩手県雫石町)に盛岡藩の口留番所がそれぞれ設けられ人物改めや荷物改めが厳しく行われました。又、街道筋には久保田藩は角館所預として藩主佐竹家の一族である佐竹北家を配し、対する盛岡藩では雫石に代官所を設けて行政的、軍事的拠点としていました。何時頃に開削されたのかは不詳ですが延暦20年(801)、坂上田村麻呂が滴石地方に影響力のあった大武丸を討伐した前後に田村麻呂の命により街道が設けられたと伝えられています。前九年合戦(永承6年:1051年〜康平5年:1062年)では厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)に立て籠もる安倍貞任を討つ為、源義家は宿陣した金沢柵(秋田県横手市)から生保内街道(雫石街道)を利用して陸奥国に入り見事安倍氏を滅ぼし乱を平定したとされます。平将門の娘とされる滝夜叉姫は乱が平定され将門が討死すると逸早く5人の家来に守られながら奥州に逃れ、生保内街道(雫石街道)から出羽国に入ったとされ、仙北市田沢湖町には滝夜叉姫の墓(姫塚)と伝わる塚が建立されています。文治5年(1189)の奥州合戦の際は平泉藤原家に従った北陸、出羽の豪族達の討伐の為、御家人の比企能員・宇佐美実政等が派遣され、平定後、生保内街道(雫石街道)から源頼朝が布陣した志波郡陣ヶ岡(岩手県紫波郡紫波町)に参陣しています。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際は官軍に転じた久保田藩を粛清する為、奥羽越列藩同盟に参加した盛岡藩が侵攻し藩境を巡って激戦が繰り広げられ国見峠や番所の置かれた生保内宿や橋場宿は戦場となり双方に大きな被害が出ています。文人墨客等は十返舎一九(江戸時代後期の戯作者、浮世絵師)や平福百穂(角館出身、明治から昭和初期の日本画家)、田山花袋(群馬出身、明治から昭和初期の日本の小説家)、宮沢賢治(花巻出身、明治から昭和初期の日本の詩人、童話作家)などが街道を利用しています。
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