陸奥上街道

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天王寺〜中里

歴史・観光・見所
陸奥上街道陸奥上街道は奥州街道が開削前の主要街道で当初は「松山道」と呼ばれ、「陸奥話記」、「吾妻鏡」、「義経記」にその存在が記載されています。文治5年(1189)の奥州合戦では多賀城を出陣した源頼朝は陸奥上街道を北上し奥州藤原氏方の多賀波場城を攻略し平泉まで軍を進めています。奥州街道が開削されると脇街道的な存在となり、奥州街道の一関宿から分岐して岩ヶ崎、真坂を経て出羽街道の岩出山宿に至る「上街道」となっています。奥の細道で平泉を訪れた松尾芭蕉と河合曽良は陸奥上街道を南下し出羽街道を経て出羽国に抜けています。案内板によると「・・・芭蕉と曽良は、元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)に上街道と別れ小黒崎・みずの小島を訪れようとして出羽街道を西い向かったが、途中から引き返し岩出山に泊った。おくの細道には『南部道遥かに見やりて岩手(出)の里に泊る』とある。」とあります。現在でも街道沿いには天王寺や天王寺追分、天王寺坂、天王寺一里塚(左右一対、不定形)、古碑群、狼塚、磯良神社(カッパ明神)、石畳などの史跡が点在し旧観をよく留めています。陸奥上街道は指定基準6(交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡)を満たしている事から平成2年(1990)に国指定史跡に指定されています。

天王寺: 天王寺創建は推古天皇元年(593)、全国で4ヵ寺造営された四天王寺の1つとされます。往時は寺運が隆盛し境内には七堂伽藍が軒を連ねていましたが火災により焼失し、元暦元年(1184)に藤原秀衡によって再興されています。天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置きに反発する土豪達が中心となり大崎一揆が発生するとその兵火により再び堂宇が焼失し大きな被害にあっています。天正19年(1591)、大崎一揆の不手際により米沢城(山形県米沢市)から岩出山城に移封となった伊達政宗により天王寺が再興され岩出山城に非難させていた仏像を再び戻しています。寺宝である「天王寺の建武の碑」と「如意輪観音半跏像と四天王像」は大崎市指定文化財に指定されています。

磯良神社: 伝承によると当地方に住んでいた河童が自らを虎吉と名乗り、奥州平泉の長、藤原秀郷の家来として仕えていました。特に馬の扱いがうまく、馬屋番として役目を果たしていましたが、ある時河童である事を家中に知られてしまいました。虎吉は正体を知られた以上このまま役目を果たす事が出来ず暇をもらうと、秀郷も虎吉を大変可愛がっていた事から深く悲しみ十一面観音像を授けました。平泉を離れた虎吉が当地に辿り着くと地域の開発に尽力した為、虎吉の死後、守護神として祭られるようになったと伝えられています。


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