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 神社山門: 日光東照宮

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日光東照宮

日光東照宮(栃木県日光市山内)

日光東照宮(栃木県日光市山内)

日光東照宮(栃木県日光市山内)

日光東照宮(栃木県日光市山内)

【 概 要 】−日光東照宮は徳川家康の御霊を祀る霊廟として知られ、3代将軍徳川家光が多くの社殿、堂宇を造営しています。家康の遺言では小さな祠(神社)程度にしなさいと残していましたが、2代将軍徳川秀忠はある程度遺言に従い、初代将軍にしてはやや控えめな社殿を造営しました。しかし、家光は遺言を完全に無視し、当時の建築、土木の最高技術を投入して造替を行い、左官、彫刻、書画、書画などの文化芸術の最高峰がそれらを彩りました。戊辰戦争の際には攻撃の対象、明治時代初頭には神仏分離令と何度も危機が訪れましたが、存続が認められ本殿、石の間及び拝殿(1棟)、正面及び背面唐門(2棟)、東西透塀(2棟)、陽明門(楼門)、東西回廊(2棟・附:潜門)の8棟が国宝に指定され、殆どの建物が国指定重要文化財に指定されています。

【 場 所 】−栃木県日光市山内

【 構 造 】−陽明門:入母屋、銅瓦棒葺き、三間一戸、八脚楼門、国宝、世界遺産

【 備 考 】−日光東照宮は陽明門をはじめ、大規模かつ壮麗な社殿(霊廟建築)が境内狭しと軒を連ね、徳川家康の遺言の1つ「一周忌の後に日光山に小堂を建て御霊を勧請し関八州の守護神とするように。」にあるように小堂とは大きく異なります。同じく、遺言通りとすると日光には遺骸は無く、御霊だけという事になりますが、あえてどちらとも言えないような状況を作り出しています。これらは天海大僧正が大きく関わっている事が推察されますが、何故この様な対処をしたのでしょうか。一つは天海は天台宗の僧侶で、徳川家に取入り天台宗の普及させる必要性があったと思われますが、徳川家康の遺言の残りの3つである「遺骸は久能山に埋葬」、「葬式は江戸の増上寺」、「位牌は大樹寺に安置」には久能山が神式、増上寺と大樹寺は浄土宗である事から天台宗は全く関係が無く、日光山についても、家康本人は最も霊地である現在の男体山を意味したのではないかと思います。

天海としては、このままでは、天台宗と徳川家とは関係が深く成り得ない事から、日光山内にある天台宗の寺院である輪王寺の存在を最大限に利用し、同じ神式でも天台宗の守護神である日吉大社(滋賀県大津市坂本)を本社とする「山王一実神道」を猛烈に推し、神号を「権現」と誘導しました。遺言の「小堂」も家康の意向を汲まず、あくまで霊廟(墓)の事と勝手に解釈した事で、それを取り巻く境内は壮麗にし、さらに輪王寺の隣地に定めた事で必然的に輪王寺(天台宗)が今まで以上に優遇される結果となりました。

家康の遺骸についても、単なる御霊と実際に遺骸が埋葬されているとは、霊地との印象が全く異なる事から、暗に遺骸が埋葬されている事を示唆させ、さらに三代将軍徳川家光に久能山東照宮を上回る社殿群を造営させた事で日光山内の霊地化、本社化を図ったと思われます。家康自身の意を汲んだ2代将軍徳川秀忠は久能山東照宮を本社と想定し、初期の日光の社殿よりも壮麗な社殿を造営していましたが、家光と天海によってひっくり返された格好です。日本神社100選

栃木県の神社山門
那須神社太平山神社木幡神社鷲子山上神社長沼八幡宮賀蘇山神社尾出山神社高椅神社
須賀神社二荒山神社朝日森天満宮唐沢山神社今宮神社佐野東照宮日光東照宮(陽明門)
二荒山神社滝尾神社二荒山神社中宮祠
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