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 神社山門: 鳥海月山両所宮

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鳥海月山両所宮

鳥海月山両所宮(山形県山形市宮町)
【 概 要 】−鳥海月山両所宮の創建は前九年合戦の戦勝を祈願する為に源頼義、源義家父子が鳥海山大物忌神社と月山神社の分霊を勧請して社殿を造営したとされます。最上地域の総鎮守として歴代領主から崇敬庇護され社領の寄進や社殿の造営が行われ社運が隆盛しました。

【 場 所 】−山形県山形市宮町3丁目

【 構 造 】−入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚楼門、山形市指定有形文化財

【 備 考 】−前九年の役は永承6年(1051)から康平5年(1062)までの12年間、形式上は奥州の俘囚長である安倍氏が反乱を起こし、それを朝廷軍が鎮圧した戦いです。由緒によると安倍氏の追討軍を指揮した源頼義、義家父子が戦いにあたり、鳥海山を御神体とする大物忌神社と、月山を御神体とする月山神社に戦勝祈願を行い、勝利すると凱旋した康平6年(1063)に両神の分霊を山形に勧請し当社(後の鳥海月山両所宮)を創建したとされます。東日本では前九年の役や後三年の役で源頼義、源義家が戦勝祈願したという由緒を持つ社寺が数多く存在し、全くなかったとは言えなくはないものの多くは後年に創作したものと思われます。

源頼義は陸奥守に就任すると多賀城(宮城県多賀城市)に入り、ここを拠点に安倍氏に対処し、殆どの戦は現在の宮城県北部から岩手県にかけて行われている為、当然行軍の経路は両県に限定されると思われます。そうなると、戦勝祈願は多賀城の近くに鎮座し陸奥国一宮とされる(所説有り)塩釜神社や、行軍経路上で宿営地となった数か所に必然的に限定される事になります。又、何故態々山形に当社を創建する必要があったのか極めて謎と思われます。個人的には「日本三代実録」の仁和3年(887)5月20日の条に出羽国府を出羽郡(現在の庄内地方)から最上郡(現在の山形市周辺説が有力)へ遷す旨が記されている事から、国府と共に延喜式神名帳で名神大社として記載されている大物忌神社と月山神社の分霊が勧請され、さらに国分寺も遷され新しい町割りが行われたと考えます。

山形県の神社山門
出羽三山神社鳥海月山両所宮羽黒神社上杉神社鳥海山大物忌神社日枝神社御諸皇子神社
金峯神社池神社
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