訂正後のその後の倭国

 全国の観光と歴史的建築物(ホーム)邪馬台国>訂正後のその後の倭国

その後の倭国を再び考察します

その後の倭国

泰始2年(266)、台与と思われる倭人が朝貢した後は義熙9年(413)に倭王讃(倭の五王)が朝貢するまで記録がありません。一方、考古学上は福岡県福岡市博多区那珂に3世紀中頃と推定される那珂八幡古墳が築造されています。那珂八幡古墳は大和王権(邪馬台国)の象徴的な存在である前方後円墳である為、魏国の後ろ盾を失った台与は早々に圧迫を受けたとも考えられます。光正寺古墳(宇実町:前方後円墳)と焼ノ峠古墳(筑前町:前方後方墳)は3世紀後半、伊都国の本拠地である糸島市には4世紀初め頃に築造された端山古墳(前方後円墳)、4世紀中頃に築造された築山古墳(帆立貝式前方後円墳)がある事から、倭での伊都国体制は4世紀を待たずして衰退したと考えられます(4世紀に入ると宮崎県、5世紀以後は九州全域に数多くの前方後円墳が築造されています。※西都原八十一号墳は3世紀中頃)。

昇明2年(478)に倭王武が宋の皇帝順帝に奉じた上表文からは現在の日本の大部分と朝鮮半島を制した旨が記されている為、これが事実であれば大和王権(邪馬台国)が5世紀に大きな版図を広げていた事になります。所謂「倭の五王」は度々宋に朝貢し、より高い身分を求めていますが、日本書紀や古事記にはそのような記録が残っている訳ではありません。日本書紀や古事記の編者は当然、中国側の資料を見ていたと思いますが、当時の天皇が中国風の名前を使い名誉を求めたへりくだった態度や、自分達が改変した天皇の系譜と異なっていた事から意図的に削ったのかも知れません。短絡的に中国、日本の資料に齟齬があるからといって九州王朝が存在し、その指導者が宋に朝貢したとは考えにくいと思われます。

当然、大和王権(邪馬台国)は中国側から「倭種」と呼ばれている事に快く思っているはずもなく、旧「倭」の没落を受け、自ら「倭」や「倭国」を名乗り(形式上は引き継いだ)、「倭(わ)」を無理やり「やまと(邪馬台)」と呼ぶようになったのではないでしょうか?

上記のように4〜5世紀頃までに大和王権(邪馬台国)の勢力が九州の大部分に浸食した様子が判りますが、当時の中央(大和地方)と地方豪族との関係性がイマイチ良く判りません。当然、中央の豪族は大王を支えたと思われますが、一方、地方豪族は一定の貢物や租税を払う事で引き続き地元の支配を認められていたかも知れません。例えば、東北地方の安倍氏は俘囚長として陸奥と出羽国の俘囚を統括する立場でしたが、陸奥国府の多賀城や出羽国府の秋田城には朝廷から国守や役人、兵などが派遣され、二重支配のような形となっていた事から九州でも同様な形だったかも知れません(安倍氏を引き継いだ清原氏や奥州藤原氏はその後も半独立国家のような存在でした)。5世紀には九州独自の装飾古墳が築造されるようになり、再び中央とはやや離れた存在になっていた事が窺えます(装飾古墳は鹿児島県は殆ど発見されていない)。横口式竪穴系石室は日本の中では九州北部が発祥とも云われますが、関係性は良く判っていません。

倭国

一応:三国史記

1143年から1145年に編纂された朝鮮半島の歴史書である三国史記の新羅本紀によると、1世紀から倭又は倭人が新羅に何度も侵入し、5世紀には数年に1度という俄かには信じられない頻度となっています。因みに日本書紀や古事記では神功皇后の三韓征伐と天智2年(663)に発生した白村江の戦いに限られている事から九州王朝説を主張している人達は、これを九州王朝が朝鮮半島に攻め込んだと捉えているようです。

三国史記については素人が中々手を出せる代物ではありません。何が真実で、何が虚構なのか判断は難しい所です。まずは「高句麗本紀」ですが「好太王碑文」に刻まれた「倭」との戦いについてスッポリ抜け落ちている事から、かなり手が入った印象を持ちます。「百済本紀」は「好太王碑文」や白村江の戦いに関連した内容が含まれ概ね史実に基づいている印象を受けます。問題は「新羅本紀」ですが前身の国家とされる辰韓が356年に滅亡し、同年に奈勿麻立干が初代王に即位している事から、少なくともこれ以前は辰韓の歴史のはずなのにさもさも新羅の歴史のような書きぶりとなっています。

大和王権にしても、九州王朝があったにしても数年に1度の割合で朝鮮半島に出兵するとは考えづらく、侵攻した「倭人」を倭寇のような海賊や朝鮮半島の南部に居した「倭人」の集団、「倭兵」を武装した上記の倭人や海賊と考え、「倭」、「倭国」、「日本」を所謂「国家」としての関わった事績として考えるとかなりスッキリします。

三国史記(新羅本記:抜粋)

57年-4代王脱解尼師今立。脱解は倭国東北一千里にある多婆那国で生まれる。当時の倭国の中心は伊都国(福岡県糸島市)、そこから東北に一千里(1里:432m)は432キロに相当し、当時の出雲国となります。又、読みの響きから当時の丹波国(京都府と兵庫県の日本海側)の説も有力ですが概ね650キロ程離れています(1里を唐時代の559.8mとすると有力候補となります)。
59年-夏の五月に倭国と修交し、使者を派遣し合った。多婆那国(出雲国又は丹波国)出身の脱解が倭国に修交を求めたとも考えられます。又、57年に倭国の中心である伊都国王が後漢の光武帝から「漢委奴国王」印を賜り後漢から冊封された事も関係があるかもしれません。
123年-春三月に倭国と講和した。
173年-倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。卑弥呼が倭王になったのは正始元年(240)、推定される死没年である248年から逆算すると当時しては超長寿となります。
300年-春正月に、倭国と使者を派遣し合った。この年までに九州北部を掌握した大和王権(邪馬台国)が新生倭国として辰韓に使者を派遣したとも考えられます。
312年-春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。
344年-倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年-二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
402年-三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。好太王碑文によると391年に「倭」が新羅を破り臣民とし、400年に高句麗によって救援された事は明白ですが黒歴史な為に削除されたようです。2年後に高句麗に敗れたはずの倭国に人質を出しているのが興味深いところです。
418年-高句麗への人質(卜好)が堤上奈麻と共に帰った。倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。
663年-倭国の水軍が来て、百済を助ける。白村江の戦い。
670年-倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
698年-三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
年号等はWikipedia参照

三国史記(百済本紀)

397年-夏五月 阿?王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。好太王碑文によると391年に「倭」が百済を臣民にしたとされます。
402年-五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年-春二月 倭国の使者が来たので、阿?王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年-腆支太子は倭国において阿?王の訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
418年-夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
428年-倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
608年-隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。隋書によると前年に倭王多利思北孤が派遣した遣隋使の答礼使として文林郎裴清を派遣しています。
653年-秋八月、義慈王は倭国と修交した。
662年-七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。 百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。白村江の戦い。
年号等はWikipedia参照

随書(倭国伝)

隋書は628年に編纂されたものです。大和朝廷から使者を迎えた事で都が邪靡堆(ヤビタイ)で、それが魏志倭人伝でいう邪馬臺(ヤバタイ)という事が把握された一方で、考えもせず邪馬臺が帯方郡から1万2千里にあるとしています。又、倭国の大きさが「東西五ヶ月行、南北三ヶ月行で海に至る。」としていますが、ここでもかなり日数を盛った印象を受けます。

中段は大半が魏志倭人伝の要約、一部が他の記録を差し込んでいる構成で、意味を深く考えずに要約した為、部分的に魏志倭人伝とは若干異なる所があります。ここに阿蘇山がある旨が記されている為、九州王朝説を主張する人は7世紀にも邪馬台国(又は後継国家)が九州に存在してると主張しています。阿蘇山があるから邪靡堆が九州にあるという主張ですが、九州にあった旧倭国と、大和王権に併合された新倭国との関係がよく判らず混乱しているだけに感じます。実際、誇張された距離である1万2千里が検討もされず転写されているところを見ると当時の倭国の事を余り判っている人は少なかったと思います。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣した旨が記載されています。この事象は日本の「記紀」には記載されおらず、当然、歴代天皇の中に阿毎多利思北孤を名乗る人物はいません。607年に、再び多利思北孤が遣隋使を派遣し、有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の国書が提出されています。阿毎多利思北孤は記紀には記載されていませんが、「新唐書」東夷伝日本伝によると「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」と記載されている事から第31代用明天皇が多利思比孤である可能性が高いと思われます(諸説有)。

大業4年(608)に中国(随)から裴世清が派遣された際の行程は、遥かなる大海の先にある都斯麻國(旧対馬国)を経て、東に一支國(旧壱岐国)に至る、又、竹斯國(筑紫)に至る、又東に進み、秦王國に至る。秦王國の人々は華夏人(中国人)と同じで、夷洲(蛮族)とは思えない。又、また十余国を経て海岸に到達した。竹斯國から東はすべて倭に付属している。一支國が都斯麻國から見ると実際は東南なのに「東」に位置していると記されているのはやや気になります。伊都国不彌國が衰退し大陸の玄関口である竹斯國が勃興した事が判り、竹斯國(筑紫)は福岡市博多区付近である事が推察されます。秦王国がどこにあるのかは明確になっていいませんが、その後は瀬戸内海の海岸沿いを移動、大和国の玄関口である現在の大阪湾付近に達したと思われます。何故、都斯麻國(旧対馬国)と一支國(旧壱岐国)が倭に含まれていないのかは判りませんが、九州島から本州、四国を「倭国」と考えていたのかも知れません。

秦王国は単純に考えると竹斯國(筑紫)から東に位置し瀬戸内海沿いを移動出来る事が条件となる為、ある程度限定出来ます(博多→陸路→行橋→陸路→下関→陸路→難波)。又、大宝元年(702)に編纂された「豊前国戸籍」によると現在の福岡県行橋市(仲浄郡)の住民404人中9割以上が秦部姓とその一族である勝姓で占められている事が判っており、そこを含む豊前国が秦王国だった事が有力と思います。十余国がどの様な国かは判りませんが、約100年後の律令制度下の国名を参考にすると豊前国から、筑前国→長門国→周防国→安芸国→備後国→備中国→備前国→播磨国→摂津国→和泉国、以上で10カ国となります。

旧唐書(倭国の条)

「倭国者、古倭奴国也。」の一文があり「倭国は古の倭奴国なり」と訳せます。倭国は昔の倭奴国(委奴国=伊都国)だったという意味となります。

旧唐書(日本国の条)

1-「日本国者倭国之別種也。」の一文があり「日本国は倭国の別種なり。」と訳せます。倭国は「倭」、日本国(邪馬台国)は「倭種」であるという意味となります。
2-「日本舊小国、併倭国之地。」の一文があり「日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。」と訳せます。日本(邪馬台国)は昔、格式の低い国だったが、旧倭国(中国から冊封を受け認められていた国)を併合したという意味となります。
3-「東界北界有大山為限山外即毛人之國」の一文があり「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なり。」と訳せます。東界北界の境界は富士山(大山)で、その外側は毛野(上毛野:群馬県・下毛野:栃木県)の国であるという意味となります。

九州王朝説を主張する人は倭国(九州王朝)と日本(ヤマト王朝)が同時代に並列していると考えているようですが、実際は今までの記録で旧倭国が中国から冊封を受けている事から、混乱を避ける為に、最初に旧倭国(倭)を説明し、別種(ヤマト王朝)がその旧倭国を併合した後に「倭国」を名乗り、さらに「日本」と改名した旨を説明しているという意味となります。当初はその経緯が判らない中国の役人が日本が何故倭国を名乗っていたのかを疑っていたようです。

新唐書

新唐書は旧唐書の約150年後に編纂されたもので旧唐書が「倭国の条」と「日本国の条」に分れていたのに対し、新唐書は「日本国の条」だけとなっています。新唐書の編者は旧唐書を理解せず足して2で割るような表現をし、さらに、九州にあった倭国が大和に遷都したと説明しています。これは、日本側の何らかな資料を参考にしたせいで、初代を天御中主とし彦瀲(山彦、海彦の山彦)まで32代、神武の代で天皇と呼ぶようになり大和に遷都(神武東征)したとしています(984年に日本側から「王年代記」を宋に提出している事から、これを参照したと思われます)。

スポンサーサイト
※ このサイトは予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、リンクはフリーです。