訂正後の邪馬台国までの行路

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行路を再び考察します

魏志倭人伝の行程記事は大きく3つに分けられています。

1-帯方郡から女王国(国境:奴国の国境と同義)
2-帯方郡から投馬国
3-帯方郡から邪馬台国

1-帯方郡から女王国(国境:奴国の国境と同義)
一般的な説は帯方郡から邪馬台国まで1つ行程と捉えられている為、放射状説では伊都国を起点として投馬国→邪馬台国。直線式説では不彌國を起点として投馬国→邪馬台国としています。しかし、当サイトでは伊都国の行程記事に「」の字が使われている事から、この地誌の基本となる調査をした役人の到着点、目的地とみなし、ここから先は進んでいないと仮定しています。伊都国より先にある奴国と不彌國に対しては、目視や簡易測量、倭人の助言などにより国境までの直線的な距離を記したものと考えられます。奴国と不彌國の行程記事には「陸行」が抜けている事からも役人が実際に足を運んでいない事が判ります。当然、目的地である伊都国や、実際足を運んでいない不彌國が邪馬台国への行程の起点にはなり得ません(因みに狗邪韓國にも「到」が利用されていますが、その前に「從郡倭」の一文があり狗邪韓國が目的地であると同時に倭の国境でもある為、対馬国への起点となっています)。

魏志倭人伝の行程1

3-帯方郡から邪馬台国
上記から邪馬台国の行程記事が伊都国と不彌國が起点になっていない事が判ります。さらに、隋書倭国伝で「夷人は里数を知らず、ただ、日を以て計る。」の一文があり、当記事に「水行10日・陸行1月」と日数で距離を計っている事から、この行程記事の源は邪馬台国の役人が直接(水行・陸行)帯方郡に赴いた際に、自分の国(邪馬台国)と帯方郡の距離を説明した記録だった事が判ります。さらに言えば、帯方郡から奴国までは概算距離には係数5が乗じられていますが、邪馬台国の場合は別記事を参考した事から実日数と考えられる為、凡その距離を割り出す事が出来ます。

魏志倭人伝の行程2

帯方郡〜女王国の行程図表

帯方郡〜女王国の行程文章

帯方郡〜邪馬台国:距離・日数一覧
区間移動距離日数備考
帯方郡〜倭国境(狗邪韓国)水行7000里7日10日-
狗邪韓国〜対馬国水行1000里1日-
対馬国〜壱岐国水行1000里1日-
壱岐国〜伊都国水行1000里1日伊都国の津に直接入ったと思われます。
伊都国〜邪馬台国陸行651q1月-
※邪馬台国の役人が説明した際、帯方郡からに向かって水行10日・・・と表現したと思われます。
※伊都国(糸島市)〜邪馬台国(桜井市):651q÷30日=21.7q/日 1日の歩行距離としては極めて妥当!

邪馬台国への行程3

邪馬台国までの行路

邪馬台国までの行程の結論

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」の一文は邪馬台国の役人が帯方郡に朝貢した際、自らの国を説明した資料を基に記事にされたものと推測されます。よって、「南」は帯方郡から南に向かって船を漕ぎ出す意味となります。伊都国(糸島市)〜邪馬台国(桜井市)の距離は651q程あり、30日で割ると1日当たり21.7qとなります。唐の「大唐六典」では陸行1日は28.05q、平安京(京都府京都市)から太宰府(福岡県太宰府市)まで646qの公定所要日数が30日である事から、極めて妥当と言い切って良いと思います。ただし、行路については対馬国→壱岐国→伊都国→邪馬台国ではなく、対馬国→沖ノ島→宗像→邪馬台国の可能性もあります。何れもしても日数は変わらないと思われます。

魏志倭人伝は「倭」についの地誌である事から「倭種」に含まれている邪馬台国についての記事は殆どありません。邪馬台国には卑弥呼時代の鉄器も絹も、城柵や望楼がある宮殿はありませんし、前身入れ墨を入れている国民もいません。纏向遺跡は邪馬台国の都の可能性が高いですが、卑弥呼の都ではありません。箸墓古墳も卑弥呼や台与の墳墓ではありません。三角縁神獣鏡は卑弥呼とは全く関係ありません。邪馬台国の南には狗奴国はありません。邪馬台国の東に海があり水行1000里に倭種はありません。邪馬台国が「倭種」であるのですから。

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