もう一度:魏志倭人伝

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魏志倭人伝を再び考察します

魏志倭人伝の地動説

今回は訂正後の第二弾です。まず、魏志倭人伝を思考する畿内説、九州説を問わず殆ど全てといっていい程の人が思っている、西洋で言う所謂「地動説」があります。それは、

@-邪馬台国の女王は卑弥呼である。
A-女王国の女王は卑弥呼である。
B-@とAを踏まえ邪馬台国は女王国である。
C-倭国、あるいは「倭」は30か国である。
D-魏志倭人伝に記されている国は例外を除き倭国、あるいは「倭」に含まれている。
E-Dから邪馬台国は倭国、あるいは「倭」に含まれている。
F-@とC、Eを踏まえ邪馬台国は倭国にある30か国を統治する国である。

江戸時代前期から畿内説、九州説の両方が概ね上記の事柄だけは共通認識として捉えています。しかし、

@-邪馬台国の女王は卑弥呼であるとは直接的には書いていません。
A-女王国の女王は卑弥呼であるとは直接的には書いていません。
B-邪馬台国は女王国であるとは直接的には書いていません。
C-倭国、あるいは「倭」は30か国であるとは直接的には書いていません。
D-魏志倭人伝に記されている国は倭国、あるいは「倭」に含まれているとは直接的には書いていません。
E-邪馬台国は倭国、あるいは「倭」に含まれているとは直接的には書いていません。
F-邪馬台国は倭国にある30か国を統治する国であるとは直接的には書いていません。

何を馬鹿なと思っている人が殆どだと思いますが、江戸時代の偉人や東大京大の教授、著名な作家や歴史学者の全てが魏志倭人伝の「地動説」を繰り返し述べる事で何時しか誰も疑いもせず受け入れるようになったのかも知れません。その為、鉄板要素はスルーして邪馬台国が九州のどこから、畿内のどこかだけを追求していることが迷走の理由かも知れまません。

邪馬台国の女王は卑弥呼で無い可能性がある

@-邪馬台国の王は女王である。
A-邪馬台国は魏志倭人伝で登場する国の中で最大の7万戸の大国である。
B-卑弥呼は女王である。

魏志倭人伝では上記の3項目を明記している事から、主人公的な卑弥呼には7万戸の大国である邪馬台国の女王である事が相応しいと思い込んでしまったようです。しかし、卑弥呼が邪馬台国の女王である事は必要条件を満たしているものの、十分条件は満たしておらず、100%とは言い切れないのです。日本書紀によると第12代景行天皇の九州巡幸(事実上の征伐)では神夏磯媛(山口県)、速津媛(大分県速見)、泉媛(宮崎県)、八女津姫(福岡県八女)と女王と思われる女性が登場し、その他にも豊後国風土記や肥前国風土記などにも散見される事から九州説が考える30か国の中にはかなりの割合で女王がいた事が窺えます。全国的にみてもその傾向があるとすれば当時の最高指導者が女王である事は決して珍しくは無かったと言えます。

卑弥呼は伊都国の女王である

@-邪馬台国の王は女王である。
A-狗奴国の王は男王で卑弥弓呼と呼ばれている。
B-伊都国は代々王がいた。
C-其の国は男王→卑弥呼→男王→壱与と引き継がれている。

魏志倭人伝では30余国の国名が記されていますが、王が居たのは邪馬台国と狗奴国と伊都国の3国だけです。ここで言う「王」とは魏や漢から認めらた王の事で、当然他の30か国にも王が居たと思われますが、中国側から見ると相手にされなかったようです。もう判ったと思いますが、中国側から認められた王が代々いたのは伊都国だけで、魏志倭人伝で判る範囲でも4人の王が引き継がれている事から必然的に「其の国」とは伊都国を指し、卑弥呼はその女王だった事になります。

又、「其の国」の前には伊都国の国民性、さらにその前には伊都国の特徴が記されている事から、文脈からも「其の国」は伊都国を指し示している事になります。

伊都国には現在でいう、国際港、大使館(魏の役人が長期間滞在)、検察庁(一大率)があり他国からは恐れられていた存在で、代々中国側から認められた王が居た事を鑑みると、伊都国の方が邪馬台国より数段格上(国としての規模は邪馬台国に劣るものの格式では上)だった事が明白です。又、国名も伊都国は良い意味の字が採用されているものの、邪馬台国をはじめ、他の国々には「馬」や「支」、「邪」、「奴」、「古」、「不」、「奴」、「蘇」、「鬼」など忌み嫌われる文字が採用されており、はっきりと差を付けています。これらの事からも伊都国の女王は卑弥呼が相応しい事が判ります。逆に、邪馬台国が伊都国より格上と錯覚しているから、両国の関係性を論じるのに無理が生じる訳です。

伊都国2

邪馬台国は女王国では無い

@-女王国の北側には一大率(伊都国)がある。
A-女王国の東側は海である。
B-女王国の南の国境から南へ4千里(345.6q)には侏儒国(種子島)がある。
C-女王国の北側の国々には略細が記されている。
D-女王国の南の国境を接して狗奴国がある。

女王国

女王国の凡その位置は比較的簡単に導けます。上記の@〜Cを満たすように機械的に地図に当て嵌めると基本的にその範囲が判ります。北側の国境は伊都国との境がある背振山地、それに佐賀の天山、英彦山(福岡)を結ぶライン。東は大分県の海岸ライン。南は種子島の広田遺跡から北に向かって陸行と水行合わせて345.6キロ、概ね大分県と宮崎県の県境と熊本県北部を結ぶラインとなります。女王国の北側にある対馬国、壱岐国、末盧國、伊都国、不彌國には略細があり、奴国は略細がありますが女王国に組み込まれているという位置関係です。狗邪韓国は取り扱い注意の国で、港湾施設、又は現在でいう大使館のような施設(治外法権有)、又は城塞だけで構成されているのかも知れません(国王無し、官僚無し、家屋無し、距離無し)。

もし、上記の女王国と邪馬台国が同義であれば、南方の国境が狗奴国と接している為、旁国21か国を当てはめる事が出来ず矛盾します。女王国の中にある都が邪馬台国であるとの説がありますが、奈良時代の平城京で4〜5万人規模、平安時代の平安京が10〜15万人規模である事から弥生時代末期で7万戸、35万人前後の都市を計画する事は出来ません。邪馬台国は2千人規模の現在の市町村レベルの小国が10個程度ある、現在でいう県レベルの面積を有している国を3〜4カ国支配している国であると解釈する方が妥当と考えます。以上の点からも女王国と邪馬台国は異なる存在という事になります。

又、旁国21か国が列記した後に「ここは女王の境界尽きる所」と記している事から、女王に従った旁国21か国が女王国である事が判ります。「丗有王皆統屬女王國」この難解の一文は伊都国の権威と女王国が旁国21か国で構成されている事が分かれば「歴代の王(伊都国王)に女王国(旁国21か国)の皆が統属している」と訳す事が出来ます。一方、女王国と邪馬台国を同義と誤り、伊都国より女王国(邪馬台国)の方が格上と勘違いしている人は、「歴代の王(伊都国王)の皆が女王国(邪馬台国)に統属している」と全く反対の訳となります。

倭国と「倭」は同義ではない

自分が子供の頃の教科書には「日本の弥生時代後期には「倭」又は「倭国」と呼ばれた。」といった内容が記されています。「倭」と「倭国」が同義である、これも鉄板ネタで数百年間、誰も疑った人も居なかったと思います。魏志倭人伝の中では「倭国」と「倭」は明らかに使い分けており、これを正しく理解しないと当時の日本の姿が見えて来ません。

」の使用例
@-倭人は帯方東南
A-從郡至倭
B-倭地温暖
C-女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
D-参問倭地
E-倭女王遣大夫難升米等詣郡
F-親魏倭王卑弥呼
G-今以汝為親魏倭王
H-拝仮倭王
I-倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
J-倭錦
K-倭女王卑弥呼
L-壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人

倭国」の使用例
@-帶方郡諸韓國及郡使倭國
A-倭國亂相攻伐歴年
B-奉詔書印綬詣倭国 

上記を見比べても中々判り難いのですが、「倭」のCの倭種という単語があります。その一文を訳すと、女王国(旁国21か国)の東沿岸から海を渡り1千里行くと、複数の国があり皆、倭種である、と訳せます。倭種は「倭」の別種と推察され、個々の国を指す事でない事が明確です。うまい表現が浮かびませんが、「地域」や「グループ」、「圏」など、ある一定のまとまりを示しています。中国側から見ると、当時の日本は所謂「国家」では無く、「倭」と「倭種」、「狗奴国グループ(東テイ(魚是)?)」の3つ「地域(圏)」があると認識していたようです(狗奴国グループがもし「東てい」ならば20余国である事から「倭」と十分互角に戦えたと思われます)。

訂正後の「倭」

倭国あるいは「倭」は30か国でない可能性がある

自分が子供の頃の教科書には「弥生時代後期に100余国に分れ、卑弥呼の時代には30か国に淘汰された。」といった内容が記されていました。これも鉄板ネタで数百年間、誰も疑った人も居なかったと思います。ただし、私の説ではこの問題も正解か迷走するかのターニングポイントの一つとなっています。多くの人が教科書同様の理解をし、九州説では概ね九州北部から中部、畿内説では九州から東海地方を倭国の範囲としています。

魏志倭人伝では「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」の一文があります。まず「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑」は倭人が主語になっている事から、「倭」について記されている事が判ります(倭国ではない)。「舊百餘國」と「漢時有朝見者」は過去の資料、「今使譯所通三十國」は現在の資料を参考にして編纂した事が窺えます。「舊百餘國」については紀元前1世紀頃に編纂された漢書の地理志燕地条で「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」の一文がありこれを参考にしたと思われます。「漢時有朝見者」については後漢書の東夷伝(倭伝)に建武中元二年(57)年と永初元年(107)に倭国(倭ではない)からの遣いが派遣された事が判ります(ただし、文章の多くが魏志倭人伝を参考にし、さらに改変されている為、取り扱い注意です)。

「今使譯所通三十國」については出典が不詳の為、確定する要素がありません。一般的な解釈の通りに100余国の内30か国に淘汰され、その全てと交流しているとも解釈出来ますが、例えば、100余国の内50か国が残され、その内の30か国と交流していると考える事も可能ですし、倭だけでなく、倭種や狗奴国グループの中から合計して30か国と交流していると考える事も可能です。多くの人は魏志倭人伝で登場する狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末盧國、伊都国、不彌國、投馬国、邪馬台国、旁国21か国(奴国含む)、狗奴国で合計30か国になる為、「今使譯所通三十國」に合致すると考えていますが、狗邪韓國と末盧國には官僚が居ない為に中国と直接に関係を持ったとは考えづらく、一方、侏儒国は女王国との距離や人種の特徴が記されている事から何らかな関係があったとも考えられます。

倭国の定義は魏志倭人伝だけでは出来ない

「倭」を明確にするには「倭国」を定義する必要がありますが、魏志倭人伝の中で「倭国」は3度しか使用されておらず、定義出来ません。そこで後漢書の東夷伝の一文である「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬」を参考にします。ここで出てくる「印綬」が有名な「漢委奴国王印」で一般的(教科書)には「漢の委の奴の国王」と読まれ魏志倭人伝で登場する「奴国」の国王が漢の皇帝から賜ったとされます。ただし、金印は「漢〈改行〉委奴〈改行〉國王」と刻まれ、 皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い事から「委奴(イド)」は国名で伊都国の国王が賜ったものとの別説もあります。

@-中国(漢・魏)は唯一、伊都国には代々王がいたと認識している。
A-中国(魏)は伊都国、邪馬台国、狗奴国以外は王として認めていない。
B-金印が発見された志賀島は奴国では無く、不彌國(奴国は伊都国の東南に位置する)。
C-伊都国の王墓、三雲南小路遺跡近くに鎮座している細石神社に金印を所有していたとの口伝がある。

様々な学者、研究者が論を講じていますが@〜B+Cを満たしている国は伊都国しかありません。そうなると、伊都国から派遣された大夫(外交官的な役職)は「自分は倭国の南の最も端からやってきた」旨を話している事から、伊都国が倭国の一番南に位置している事が判ります。さらに魏志倭人伝では狗邪韓国が倭の北岸と表現している事から、倭国は伊都国と狗邪韓国を挟んだ範囲という事になります。結論からすると倭国は狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末廬国、伊都国、不弥国の6か国で構成されている連合国家で、その中心地が伊都国という事になります(奴国は伊都国より東南に位置し、女王国に含まれる)。

倭国

倭国と「倭」の定義

九州説を主張する人や畿内説を主張する人にとっては受け入れがたいように思いますが、倭国は狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末廬国、伊都国、不弥国の6か国で構成されている連合国家である事を定義付けなければいけません。一方、「倭」は倭国と、伊都国に従った女王国(旁国21か国)を取り囲んだ地域に定義付ける事が出来ます。倭種との境は微妙で、女王国の東沿岸とも、東沿岸から1000里(直線で86.4キロ)先とも考えられます。もし、東沿岸から1000里(直線で86.4キロ)とすれば、本州では山口県、四国では愛媛県の中部、高知県の西部に当たり、銅矛文化圏に合致します。よって考古学などかも考慮して「倭」の北限は狗邪韓国、南限は概ね大分県と宮崎県の県境と熊本県北部を結ぶライン、東限は山口県と広島県の県堺付近から高知県の西部を結ぶラインという事になります。

又、建武中元二年(57)年に伊都国王が初めて中国(後漢)から王として認められ、永初元年(107)には帥升が「倭国王」を名乗り、正始元年(240)に卑弥呼が正式な「倭王」として認められている事から、時代が下がるに連れて支配領域が拡大した事が理解出来、伊都国に中国(漢・魏)から認められた王が代々いた事が判ります。

委奴国王(1国の王)→倭国王(6国の王)→倭王(27国の王※委奴から伊都へ変更)

邪馬台国と投馬国は「倭国」と「倭」では無い

倭国が北限が狗邪韓国、南限が伊都国である事から、倭国に邪馬台国と投馬国が入り込む余地はありません。一方、女王国を構成している旁国21か国の中に邪馬台国と投馬国の名を見つける事が出来ません。倭の中の空白域である山口県や四国西部は距離(水行○○・陸行○○)の問題があるので、そこでもありません。

邪馬台国と投馬国は倭種である

倭の官僚

邪馬台国と投馬国の位置の算出

結論

中国(魏)は当時の日本が「倭」、「倭種」、「狗奴国グループ(東テイ(魚是)?)」の3地域がある事を把握しており、それぞれの中心的な国のリーダーを「王」として認めていた事が判ります。すなわち「倭」の中心である伊都国の卑弥呼、「倭種」の中心である邪馬台国の女王、「狗奴国グループ(東テイ(魚是)?)」の中心である狗奴国の卑弥弓呼の3人という事になります(逆に言えば、「倭」の中に邪馬台国の王と伊都国の王が並び立つ事は無いという事です)。又、「倭」は銅矛文化圏、「倭種」は銅鐸文化圏に合致、両地域が交差する瀬戸内海では文化の対立があったと見られ高地性集落の密集地帯でもあります。

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